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諏方神社

2017.09/06(WED)

諏方神社 西会津町野沢・旧越後街道野沢宿




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写真;2017.09/05
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諏方神社
 社伝によると永仁二年(一二九四)に蘆名宗盛が信濃国から諏訪大明神を勧請した際、鎮座の御輿がここ地蔵原に宿営したのにちなみ延慶三年(一三一〇)菅原刑部左衛門頼国が祠を建てて祀ったのが諏方神社の始まりといいます。又、荒井信濃守頼任がこの地にあった六地蔵を取り除き、嘉元元年(一三〇三)諏訪の祠を建てる地を設け、延慶三年に諏訪社の宮殿を建てたとの話も伝わっていますが、両者とも真偽の程は不明。諏方神社はもとは地蔵原に祀られていました
 いつの頃か伝説によると、不動川と長谷川の合流点に徳一大師の弟子徳蔵和尚が庵を結んで住んでいて旅人のため橋を架け、人はこの橋を徳蔵橋と呼んでいました。徳蔵和尚はその後、地蔵原に寺を建立。その頃、この原一帯に無数の水子地蔵が点在していたため地蔵原と呼んだのでしょう。徳蔵和尚は寺の一角に地蔵堂を建て千体を越す地蔵をお堂に祀りました。永仁二年この地に諏方神社が造営され、近くの地蔵堂との間にもめ事が起こり、蘆名公は地蔵堂を壊すことを命じ、徳蔵寺は、西羽賀(現喜多方市高郷町)に地蔵堂と共に移りました
     西会津町・にしあいづ観光交流協会
--現地の案内板から--
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鉄火の裁き
 元和五年(一六一九)藩主蒲生家の時代、松尾村と縄澤村の間で山の利用権をめぐって争いになり刃傷沙汰へ発展したため、藩庁が間に入って調停しようとしましたが、理・非の裁断ができず、両村もまったく引かなかったため、「鉄火」による決着を行うことになりました
 すなわち、両村から代表者が出て、鉄火(真っ赤に焼けた鉄の棒)をつかみ、先に落とした方が負けという勝負です。この勝負に負ければ「御成敗」、勝っても重傷の火傷を負うという苛烈きわまりない裁判です。縄澤村の代表になる決意をした次郎右衛門は今後農耕不能になるため、自家の農事の補償を村に約束させました。一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門
 同年八月二十一日。双方礼服を着用して手に熊野牛王(ごおう)の護符をささげながら神前にすすみ、役人が炎火の中から取り出した鉄火を受け取りました。次郎右衛門は三度までおし戴いて傍らの三方の上に置いたのですが、清左衛門は受け取るとすぐに護符が燃え上がり、鉄火を投げ出して斃れてしまい、決着はつきました
 清左衛門はその場で御成敗、その遺骸を頭部、胴部、脚部に三分割し、両境内に村の「山界」を示す三か所に埋め、境塚を築きました
 松尾では現在、村の犠牲となった清左衛門の塚に碑をたて、真福寺の境内に墓碑を建てて故人を厚く供養しているそうです
     西会津町・にしあいづ観光交流協会
--諏方神社参道入口にある案内板から--
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