梶原平馬供養塔

2017.06/07(WED)

梶原平馬供養塔 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺





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梶原平馬供養塔
平成二十五年(2013)六月吉日建立


梶原平馬 かじわらへいま
 天保13年(1842)? - 明治22年(1889)は、幕末の会津藩家老
・生涯
内藤家に生まれ(内藤介右衛門信節は兄)、梶原景保の養子となる。梶原家の遠祖は梶原景時で、家禄1000石であった。最初の妻・二葉は山川浩、山川健次郎、大山捨松の姉。一子・景清は二葉が養育し、のち海軍軍医大佐となる
・幕末
藩主・松平容保が京都守護職在任中は側近として仕えた。慶応2年(1866)、家老に就任。鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、平馬は江戸で資金、軍備の調達にあたり、桑名藩主・松平定敬、越後長岡藩家老・河井継之助とともに汽船で新潟に上陸し会津へ帰還した。スネル兄弟の協力を得ている。その後、会津藩において奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たしたとされる。会津戦争の際、会津若松城に籠城したが、平馬は政務を総監した。西郷頼母を追放し、頼母暗殺指令を下したが、命を受けた大沼城之介、芦沢生太郎は実行しなかった。敗戦を迎え、降服式において平馬は藩主父子の助命嘆願を行っている。藩主父子が鳥取藩江戸屋敷に幽閉された際は、平馬も随行している。会津藩の責任者として切腹することとなった萱野権兵衛にその命を伝える役を務めた
・明治
その後、斗南に移住し青森県庶務課長となったが、短期間で辞職し根室へ移住した。会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。2人目の妻である貞は私立小学校の校長を務めた教育者であった
--引用・要約;「梶原平馬」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.10/07(金)10;27--
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会津戦争記聞(2013.08/13)



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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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by mo20933 | 2017-06-07 15:41 | 会津若松市 | Comments(0)