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古屋作左衛門の追討

2017.01/21(SAT)

古屋作左衛門の追討
復古記/国立国会図書館デジタルコレクション




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[国立国会図書館デジタルコレクション]復古記 第11冊 コマ番号 457
p.868- 869
復古外記 北陸道戰記 第五 明治元年閏四月五日
【コマ 457】
○是ヨリ先、古屋某(作左衛門)等、越後ヨリ信濃ニ入リ、飯山(本多助成ノ治所)城下ニ逗ル、尾張、松代等、諸藩兵ヲ発シテ之ヲ討シ、北クルヲ追テ越後ニ入ル、東山道総督、乃チ監軍岩村高俊(精一郎、土佐藩士)ヲ遣シテ、諸藩兵ヲ督セシム、是日、書ヲ二督ニ致シテ、其状ヲ報シ、且高田藩ノ形跡疑フヘキヲ以テ、速ニ軍監ヲ派遣シ、本道軍監ト協議シテ、之カ區慮ヲ為サシメンコトヲ請フ。
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 鳥羽伏見の戦いの後、幕府歩兵代11連隊、第12連隊兵士が江戸開城を不服として脱走した。古屋佐久左衛門は彼等を帰順させ、更に第6連隊の兵を加えて約900名の部隊を結成した
・3月 9日
 梁田の戦いでは新政府軍の奇襲攻撃を受けて敗北。翌日、鹿沼にて部隊を再編成し、藤原を経て22日には、会津に入り松平容保に謁見、24日には部隊名を衝鋒隊に改める。翌25日には、若松城下を発ち、水原をへて
・4月 1日、新潟に着いた。その後、11日には与板へ移動、高田を経て23日には飯山城下へと迫った
・4月25日
 衝鋒隊と、新政府軍の松代・尾張藩兵との間に戦闘が始まる。戦いの前半は衝鋒隊が優勢であったが、玉虫色の態度を示していた飯山藩が、衝鋒隊に対して突然発砲、衝鋒隊は総崩れになり敗北した(飯山戦争)
 越後へ退却すると、高田藩の裏切りにあって襲撃され、衝鋒隊は四分五裂となり敗走した。しかし小千谷にて再結集し、閏4月27日からの鯨波戦争では小千谷市南方に位置する雪峠にて会津軍と共によくこれを守ったが、新政府軍の三度に渡る波状攻撃を受け、小千谷を放棄、片貝村へと退いた
--引用・要約;「衝鋒隊/古屋作左衛門」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』--

古屋作左衛門の追討_c0185705_9533616.jpg

↑写真;東軍総督・古屋佐久左衛門(1833~1869)/足利市梁田公民館史料

梁田戦争戦死塚(2014.04/13)
梁田戦争1(2014.04/11)



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by mo20933 | 2017-01-21 13:50 | 長野県