壬生義士伝

2017.01/17(TUE)

壬生義士伝 吉村貫一郎
南部盛岡藩二駄二人扶持足軽、脱藩後新選組入隊




 み ぶ ぎ し で ん
「壬生義士伝」
 浅田次郎による日本の歴史小説。南部地方盛岡藩の脱藩浪士で新選組隊士の吉村貫一郎を題材とした時代小説である。新選組で守銭奴や出稼ぎ浪人などと呼ばれた吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた作品で、2000年に第13回柴田錬三郎賞を受賞した
--引用・要約;「壬生義士伝」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.07/24(日)13;55--
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五稜郭に霧がたちこめる晩、若侍は参陣した。あってはならない“まさか”が起こった―義士・吉村の一生と、命に替えても守りたかった子供たちの物語が、関係者の“語り”で紡ぎだされる。吉村の真摯な一生に関わった人々の人生が見事に結実する壮大なクライマックス。第13回柴田錬三郎賞受賞の傑作長篇小説
--内容(「BOOK」データベースより)--

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盛岡藩

盛岡藩は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた

慶応4年(1868)
当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた
なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない

明治元年(1868)
  9月24日 盛岡藩、新政府軍に全面降伏
 10月10日 盛岡藩の帰順嘆願が受理される。同日、新政府軍が盛岡城に入城する
 10月14日 奥羽鎮撫総督府から沢宣種が入城、戦後処置を行う
 11月11日 東征大総督府の命を受けた監察使、藤川能登(藤川三渓)が入城。南部利剛、利恭の東京への護送、楢山佐渡・江幡五郎・佐々木直作ら首謀者の捕縛といった処分を執り行う
 11月14日 奥羽鎮撫総督府の行政機関となる、久保田藩兵を中心とした鎮撫行政司庁の管理下となる
 12月 7日 南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったかどで隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収
 12月17日 南部家第41代当主・南部利恭が家名相続許されて、白石への減転封を課せられる(白石藩)
 12月23日 「諸藩取締奥羽各県当分御規則」により盛岡藩領は松代藩、松本藩、弘前藩の管理下となる
--引用・要約;「盛岡藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.12/03(土)00;09--

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 本を読んでいて、以前にtv放映(映画、2003年「壬生義士伝」)された中井貴一が演じた吉村貫一郎とどうしても重なって仕方がない
 吉村貫一郎は本名嘉村権太郎、幕末の盛岡藩士(二百石六人扶持)であり慶応元年一月に盛岡へ下向を命じられると出奔した。その後新選組の隊士となる(ウィキ)
現在伝わる吉村貫一郎像は、嘉村権太郎をモデルとした浅田次郎氏の創作であるらしい
--2017.03/24 更新--
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【二駄二人扶持】 一駄は馬が背の両側に背負う分の米で、つまり二俵、二駄で四俵。普通これを年に二度か三度に分けていただくから御切米と呼んだ。一人扶持は一日約五合、二人扶持で一日一升。一年で三六〇升(三六斗)、おおよそ十俵
--引用;「壬生義士伝」浅田次郎--



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by mo20933 | 2017-01-17 15:42 | その他>その他 | Comments(0)