(一)二俣口の戦

2016.09/18(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/二俣口の要塞
国立国会図書館デジタルコレクション




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箱館戦争概略図 1

※明治 2年(1869) 4月12~14日
蝦夷の巻(第三巻)/二俣口の要塞
【コマ 444】
(一)二俣口の戦
 西軍第三軍は乙部村より北進して、間道二俣口に逼るにあり。夫れ二俣の地たる、蝦夷軍北邊の要害たると共に、江差と相俟つて西海岸の防備なり。されば蝦夷軍に於ては、陸軍奉行土方歳三を総督将と為し、傳習、衝鉾、工兵、砲兵の諸隊を送りて、山間険難の地を選びて、絶壁に陣営を置くものとす。
 四月十二日、西軍先鋒は、馬首肉迫して、暁霧を冐して二俣口の前衛を襲ふ。折しも蝦夷軍は糧食を取り居たることゝて、突然の襲撃に、一営惶擾殆んど戦守に苦しみ、退いて急を本陣に告ぐ。依て傳習隊は進んで山谷の険に據り、弾を込めてその到るを待つや。松軍先鋒の西軍は、□一勝の勢ひに乗じて、いよ/\二俣陣に現はれ来る。茲に於て、傳習隊俯瞰の陣は、弾丸雨注して攻め立つ。西軍、驚き迷ひ、仰へて是に接戦しけるも、俯仰の接戦遂に堪ゆ可らず、逸早く陣を捨てゝ走り去る。砲声本陣に達し、戦勝の報を得て蝦夷軍の志気大に振ふ。さる程に、□の隊旗を押し立てゝ、弘軍の精兵は、先陣の勇を揮つて、傳習隊を目掛けて、大呼豨突す。彼我の接戦いよ/\酣となるに至りて、松前、大野、長州の諸軍は、傳習隊の疲労を衝いて、突進甚だ急なり。然れども傳習隊の作戦巧みに妙を極め、更に高地を占むる陣形なるに依り、西軍、大兵を以て是を攻むるも、容易に進む能はず、大砲を並列して互に砲撃す。折しも薩軍は山手に深入し、迂廻して二俣本陣を襲はんとせしが、此時傳習隊を援けんとして来れる衝鉾隊と、俄然途中に於て相会し、隊士の惶擾殆んど混乱し、土崩瓦解となりて走り去る。かくて日も暮れ
【コマ 445】
て西軍は兵を引く。土方歳三、全軍に令して曰く、『敵、この山谷に在りながら、更に間道を迂回するに於ては、何れより攻め寄するか計り難し、さらば諸隊は、一同此岩砦に據り、今夜は徹夜の警戒を為さむ』と。依て全軍は本陣に在りて戦守を固め、偵察を頻りに派遣して虎視す。果たせるかな、西軍の夜襲は、大呼豨突の勢を以て、二俣本陣にと攻め来る。蝦夷軍の砲兵隊、西軍を大陣地の中に収めて、巨弾を注ぐこと猛烈。さる程に、西軍歩兵は砲弾の下を潜行し、鳴りを殺して、愈々本陣の砦下に進み、突如として弾丸を雨注す。蝦夷軍、此襲来に驚き立ち、俄かに榴弾砲を呼び寄せて、縦横無盡に乱撃すれば、電光石火、爆裂四方に轟き、天為めに崩れんとす。
 両軍の戦闘日夜に兼行し、十三日の曙光、ほの/\と東に昇る。されど暁霧は益々疊み、両軍の対峙解けず。茲に於て、蝦夷軍は大霧に乗し、衝鉾隊を先鋒として、西軍の疲労を衝くに鬨を挙げて発す。参軍大川正次郎、同大島寅雄、同畠山五郎七郎等衝鉾、傳習の諸隊を督して、急転直下砦下を掃蕩し、逃ぐるを追つて、遂に弘軍の陣に迫る。弘軍堅守銃を乱発して、相接戦する程に、その薩軍は大野、松前の敗軍を還り返して、大に畠山の陣を横撃するに至る。左右の猛撃に、畠山、遂に敵する能はず、百歩を退きて是を防げば、二俣の本陣横背に進みて、西軍の足もとに銃を発す。西軍惶擾兵は疵れて起つ能はず、土崩瓦解となりて遠く引く。さる程に、西軍荒手の精鋭は忽ち攻め来りて、肉迫捲土重来し、左翼に銃手を保つて、抜刀して進み来る。蝦夷軍殊守尚當る可らず、退きて再び岩砦に據りて是を防戦す。西軍益々後続兵を増し、一挙に此所を抜かんとして、突戦前日の談に非ず。龍争虎闘、砲銃の乱撃彼我に起り、隊士の殪るゝもの其数を知らず。されど此所は難攻の要害地、守備兵は僅かに五ヶ小隊と雖も、西軍大勢七連発の元込銃隊に當つて、優に是を支ゆるに足るもの。二昼夜に亘る攻防の激戦、蝦夷軍の一銃千発を放つて、銃身既に熱し、冷水を桶に汲み取り来つて、砲銃を是に浸しつゝ、発銃益々頑強也。されば西軍の鉄砲も発熱全く用を為さず、浸水の余暇も無き圧迫に、今や屍山血河となりて、苦戦大敗、日の暮るゝを待つて、遂に潰え去る。此戦争に於て、蝦夷軍は三万五千の銃弾を要したると云ふ。
【コマ 446】
(以下、略)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

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二俣口の戦い
 箱館に通じる二股口に進撃する新政府軍に対して、旧幕府軍は台場山に胸壁と陣地を構築して小銃で防戦し、2週間にわたって新政府軍の進撃を阻止した
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明治 2年(1869)
・ 4月 9日 乙部に上陸した新政府軍1500名は3ルートから箱館に向け進軍を開始する。二俣口ルートは箱館への最短路で、稲倉石から二俣、大野村に至る峠越えのルートであった。大野川沿いの道を進み、川が二又に分かれる地点で渡河し、正面の台場山を越えるか或いは迂回するかとなる。新政府軍は軍監駒井政五郎が松前・長州藩兵など500を率いて進撃
・  10日 旧幕軍(蝦夷軍)は陸軍奉行並・土方歳三が衝鋒隊2個小隊と伝習歩兵隊2個小隊など300の兵を率い、台場山に本陣を置いた
・  13日 江差から進軍してきた新政府軍、天狗山を攻略しそのまヽ台場山本陣に攻撃を開始する
   自他ともに兵を繰替翌十三日朝第七字過迄十六時間の戦争、敵進む能わず終に引退く。此段我兵の費す所の弾薬殆んど三万五千発に及び、・・・(「麦叢録」・小杉雅之進)
※↑で、「十三日朝第七字過迄」とあるのは、「十四日朝第七時過迄」と読み替えると解り易い?
・  14日 新政府軍、銃弾を撃ちつくし、疲労困憊して稲倉石まで撤退
・  16日 新政府軍、第ニ陣2400名が江差に上陸すると二俣方面に援軍(薩摩・水戸藩兵ら)を派遣する
・  17日 以降)旧幕軍、滝川充太郎が率いる伝習士官隊2個小隊が増強
・  23日 新政府軍、旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となる 
・  24日 未明、滝川充太郎率いる伝習士官隊が新政府軍陣地に突撃を敢行
・  25日 未明、新政府軍、撤退しこれ以降台場山攻略をあきらめ、迂回路の構築に専念する
・  29日 二股口で土方軍が新政府軍の進撃を食い止めている一方で、松前と木古内は新政府軍に突破され、旧幕軍は矢不来で守勢に回っていた。その後矢不来が突破されたことにより退路を絶たれる恐れがあった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる
--引用・要約;「二俣口の戦い」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.04/15(水)14;19--



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by mo20933 | 2016-09-18 11:58 | その他>その他 | Comments(0)