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(一)岩城の戦 2

2016.05/09(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州平潟口戦史
近代デジタルライブラリー




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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州平潟口戦史
(一)岩城の戦 2
【コマ 294】
 翌二十九日は西軍新田山を出発し、大勢一呼して、湯長谷の館に迫る。奥羽軍、戦守を部署して力戦せしかと、此所は湯本の前衞地たる所より、兵勢は自ら寡少なりしかば、砲戦一敗地に塗れて、湯本に逃げ帰る。依て西軍の突撃は、一躍して湯本の駅外に迫りて、砲銃の乱撃百雷も啻ならず。されど奥羽軍の殊守決戦頑強當る可らず。依て西軍は更に精鋭を注ぎて、肉迫互に勝敗あり。折しも相馬将監、中軍を率ゐ、新屋村を間道して、湯本攻撃の西軍後背を衝くに至る。須臾(しゅゆ)にして、米軍も亦高坂村より現はれて、等しく西軍を横撃す。茲に於て、三道に迫る奥羽軍の進撃隊は、百砲を以て攻守猛烈を極め、龍争虎撃、肉迫相當りて血戦し、大に西軍の中堅を抜くに至りしかは、西軍も本道を保つに由なく、力闘苦戦となりて、百歩を退きて恟々たり 折しも薩州、伊州、筑前、宗州の諸軍は後詰となりて、突如湯本の駅中に驀進し、火を民舎に放つて、奥羽軍の足もとを焼きて攻め立つ。茲に於て、奥羽軍の部署は、俄然として動揺し、西軍総挙の勢ひ最早防ぐ能はず、陣を捨てヽ退却すれば、西軍は益々突進し来りて、早くも兵を三道に分ち、以て急
【コマ 295】
転直下に高坂、新屋、新町を攻む。両軍の接戦百砲迅雷の間に、西軍の鋭鋒は捲土重来し、見る間に新町口を斬り破りて益々迫る。頽勢一敗諸口の奥羽軍は逸早く守りを失して、土崩瓦解となりて、天子橋に逃げ来る。茲に於て奥羽軍は天子橋の嶮を固守すべく、急遽橋板を撤し、塁を両側に築造し、更に右方薬平寺臺、大館山の丘上に至るまで、戦備を張りて扼守すれば、西軍の突撃は、見る間に前面に群がり来りて、発銃最も努む。奥羽軍、是を俯瞰して防戦必死、有利の陣形は、攻防烈戦砲声四方に湧く間に、西軍突撃の陣を壓し、兵気大に振ふ。依て奥羽軍は忽ち攻勢を取り、大呼豨突して鬨を挙げて陣を発す。龍争虎闘血戦遂に是を抜き、西軍を湯本に撃退するに至る。
 此時に當りて、松島発航の仙軍は、砲艦一隻、運送船二隻に分乗して、中ノ作港に在りけるが、天子橋の戦勝に肉踊り、精鋭必ず一勝を収めんとて、隊士千余人、督将富田小五郎、参謀安田竹之輔、軍監加藤十三郎等と共に長崎浜を経由して、小名浜村に達せしかば、此所を守備せる奥羽軍は、荒手の兵の来るを見て、兵気大に揚り、直ちに進撃を令して曰く、敵の大勢は湯本に在り、我軍今にして泉を回復すれば、平潟口の作戦、それ大に利ある所なるべしと。茲に於て、富田小五郎は小名浜口より進み、柴田中務は平本道を進み、古田山三郎は山手に間道し、こヽに三道陣を以て、泉を屠らむとす。参謀柴田中務、大呼の勢を以て、未だ泉に到らざる二十数町の地點に到れば西軍は早くも富岡村の丘上に陣して、拍手して是を環視するにあり。やがて本道の西軍放射の陣は、霹靂一声天地を震裂し、弾丸雨注して奥羽軍の不意を衝く。柴田参謀、恟々殆んど膽を潰し、仰いて頭上を見れば、西軍千兵の陣その敵すべからざるを知りて、兵を纏めて退却を始む。西軍、是を高きに望み見て、丘を駆け降りて、銃に弾を込めて突進す。奥羽軍混乱今や土崩瓦解となりて、遁れ/\て中ノ作港に撃退せらる。然れども西軍の尾撃は益々驀進して、猛弾を注ぐこと雨霰も啻ならず。柴田、敗士を叱咤して戦守を令すれども、踏み止まるものも更に無く、先を競ふて磯邊に走り、而して小舟に乗って、本船に逃げ戻る。仙艦、辛ふじて敗兵を収め、西軍の砲撃を避けて、沖合にその影を歿し去る。
【コマ 296】
 かくて六月も暮るれと、西軍の壓迫は日□しに猛烈を極め、石城三藩の運命は、刻々として迫り来る。されば平藩近藤権平、徳川脱士酒井豊三郎は早馬を駆つて会津に発足し、而して援兵の急派を迫るにあり。さる程に、急轉直下、西軍には平城の総攻撃起れり。
 七月一日、・・・
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--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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