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(一)岩城の戦 1

2016.04/08(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州平潟口戦史
近代デジタルライブラリー




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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州平潟口戦史
【コマ 292】
(一)岩城の戦 1
 上野東叡山に彰義隊を突破したる西軍は、薩州、長州、館林、大垣、岩国 因州、芸州、伊州、筑前、筑後、宗州、久留米、備前、佐土原、の諸軍にして、鋭意奥州浜通に注ぐにあり。而して肥前大村藩参謀渡邊清左衛門、総軍の督将にして、長藩参謀木梨精一郎、総軍監たり。薩藩参謀藤堂監物、因藩参謀馬場金吾を始め、将主の面々意気天を衝くの慨あり。
 されば奥羽列藩は、平潟口を守るに當りては、平藩家老上坂助太夫を軍事総長に推し、仙藩中村才助を総参謀に補し、こヽに戦闘準備は成れり。而してその部署如何を見るに、平、泉、湯長谷の各藩は城を守るに要道の関門を固め、昼夜に亘りて見張番を置くは勿論、更に小名浜陣屋には、仙将山本丹
【コマ 293】
後を送り、その平潟村には石城三藩幷に仙台の諸軍を送りて、仙将大江文左衛門、是が総守将と為り、更に勿来関、中ノ作の要衝を固めて、戦備いよ/\巌なるに至る。
 六月二日となりて、上野の山に敗北したる彰義隊の残党は、幕府遊撃歩兵隊長人見勝太郎、下総の浪人請西藩主林昌之助等に率ゐられ、汽船に依つて平潟港に遁れ来る。石城の戦陣俄かに活気満ち、奥羽軍には、仙台、中村、米沢の諸軍、伍々として日々に来り会す。
 六月十六日、天地は朗かにして波静かなり。西軍艦隊は波を蹶つて、突如平潟沖合に雄姿を現はすに至る。依て奥羽軍の平潟陣に於ては、仙将大江文左衛門、兵を激して弾を込めて待つ程に、黒煙朦々汐風に靡かせつヽ、平潟の駅邑に向つて、艦隊の沿岸砲撃は起れり。茲に於て、海陸呼応の攻防の砲戦天地を震裂して、対峙いよ/\猛烈と為りけるが、海上の猛弾甚だしく沿岸を砕くに至りて、奥羽軍衆寡敵せず、兵を纏めて関田に遁る。かくて西軍は益々驀進して、遂に関田も抜くに至れり。茲に於て、大江督将は更に退きて新田山、湯長谷の要害を保つにあり。
 六月十七日、仙将大江文左衛門、遊撃隊長人見勝太郎、請西藩主林昌之助等は、仙台、平、泉、脱藩の諸軍を率ゐて、関田に進撃して、西軍を勿来関に破り、尚も益々進みて、平潟を侵奪せむとしけるが、端なくも西軍の艦隊は、是を沖合に望み見て、巨弾を連発して大に阻む。奥羽軍殊守及ばす、退きて湯長谷を守る。
 六月十八日、大江、林の両将は、湯長谷の館を発して仁井田に出て、山に據りて戦守を張れば、西軍は筑州、肥州、宗州、館林の兵を送りて、鮫川より植田に進みて、進撃甚だ猛烈を極む。茲に於て奥羽軍は兵を二道に分ち、一挙して西軍を挟撃しければ、攻守の接戦俄然として西軍は狂乱し、遂に敗績す。さる程に、西軍の艦隊は平潟の閉息を見て、更に小名浜港に向ひ。砲口を並列して、巨弾を以て攻撃猛烈也。仙将山本丹後、平、仙台、泉の諸軍を指揮して、弾を込めて是を防ぐ。彼我の砲弾益々飛交し、砲声の轟き又百雷も啻(ただ)ならす。かくて奥羽軍の巨弾は、天地に悽声を放つて、西軍艦隊の要
【コマ 294】
部を抜くあり。奥羽軍、凱歌を挙げて戦ふ程に、海上には忽ち爆発の音響天地を震裂し、水煙霧を起して四海暗瞑、烈戦相當りて、茲に海陸の砲戦止む。西軍艦隊、その抜く可らざるを知りて、遠く沖合に影を没するに至る。
 それ平潟は西軍の全力を注ぐ所、是を防がむと欲せば、奥羽軍は一意新田山を固守せざる可らず。茲に於てか、参謀柴田中務、部隊を結束せしめて、西軍の北進を扼守する所、六月二十三日と為れば、幕府純義隊長渡邊綱之助 遊撃歩兵隊監軍澤録太郎、彰義隊の残党及び関東の脱軍を率ゐて、新田山の陣に来援するにあり。
 六月二十八日、西軍は兵を二道に進めて、いよ/\新田山に迫るべく、予め大兵を本道に注ぎて、陣を四方に取りて連撃し、鋭意奥羽軍を壓する間に、その海岸迂回の一軍は、泉の館を襲撃して是を抜き、新田山に裏切して、奥羽軍の後背にと突貫し来る。茲に於て、本道を防ぐ奥羽軍も、その後背険悪を告ぐるに至りて、最早戦守の策無し。督将柴田中務、殊守遂に利非す、兵を纏めて湯本村に長駆す。
 翌二十九日は・・・
( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

林忠崇(はやしただたか)は、幕末の大名で、上総国請西藩(一万石)の第3代藩主
 嘉永元年(1848)、請西藩主林忠旭の五男として生まれる。嘉永7年(1854)に忠旭が隠居するが、兄忠貞はすでに早世しており、自らも幼少であったため、叔父の忠交が家督を相続した。慶応3年(1867)忠交の死により、幼少であった忠交の子忠弘に代わって家督を相続する。忠崇は文武両道で幕閣の覚えめでたく、将来閣老になる器と評されていたとされる

戊辰戦争後

 明治2年(1869)、甥の忠弘が東京府士族(300石)として家名存続が認められたものの、家禄はさらに35石に減らされ、その後の秩禄処分によって困窮した生活を余儀なくされた。明治5年(1872)1月、赦免。維新後は開拓農民、東京府や大阪府の下級官吏、商家の番頭など、一介の士族として困窮した生活を送った。林家は旧諸侯にもかかわらず、改易の事情から華族の礼遇が与えられることはなかった
 明治26年(1893)、旧藩士による林家の家名復興の嘆願が認められ、忠弘は男爵を授けられて華族に列する。その際、分家していた忠崇も復籍して華族の一員となり、翌年には従五位に叙された。その後は宮内省や日光東照宮などに勤めた
 昭和12年(1937)に旧広島藩主・浅野長勲が死去した後、忠崇は生存する唯一最後の大名となった。晩年は娘と同居しながら悠々自適の生活を送り、時には「最後の大名」として各取材を受けるなど幸福であったと伝えられる。昭和16年(1941)1月22日、92歳で病没。墓所は港区愛宕の青松寺
--引用・要約;「林忠崇」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.02/18(木)08;30--
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新政府軍、平潟に上陸(2013.09/27)



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