(五)日光方面の接戦

2016.04/02(SAT)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
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写真;藤原宿(2012.07/20)
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奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
【コマ 256】
(五)日光方面の接戦
 宇都宮に敗れし脱軍は、長躯して日光山に據るなり。大鳥圭介尚脱軍の総督将として、日光街道に出没猖獗(しょうけつ)を極む。茲に於て大総督府は、軍監鍋島鷹之助を日光口西軍総督と為し、安芸少将野村帯刀を総督将に任じ、宇都宮、安芸、肥前、大田原、黒羽、館林、薩州の諸軍を送るにあり。時に脱軍は西舟生、道谷原及び新田村方面に戦守を固め、大鳥圭介藤原に陣して昇天の慨あり。八月七日宇都宮、大田原の諸軍は新田村を攻む。脱軍大勢の陣弾丸雨注して、来り是を迎え戦ふ。西軍、遂に利非ず、左右の混沌砥沢川に撃退せらる。敗報、藤原口の総督府に達す。依て速に援軍を起し、芸州、肥前の諸軍を送り、三道を以て反撃を加ふ。両軍の戦闘殊守戦するも、脱軍の堅闘よく三道を防ぎて勝敗決せず、此間に於て、肥軍は大渡に潜伏し、その繋舟を遮断して俟つ、依て西軍は主力を二道に注ぎて敢死奮闘、脱軍、遂に土崩瓦解となりて、高徳道に走れば、その大渡の要路今や一隻の船なく、脱軍混沌右往左行の窮態に乗じ、肥軍の蜂起突如に猛弾を発す。脱軍恟々万苦の中に遁れ、漸く道谷原を保つにあり。
 脱軍は道谷原に戦守を固めて、更に砥沢川の敵を扼する所あり。八月八日西軍は主力を鬼怒川に注ぎて、大に道谷原の脱軍を砲撃す。脱軍堅闘川岸に巨門を並列して防戦最も努む。折しも砥沢川に閉息したる宇都宮、大田原の
【コマ 257】
諸軍は、進んで脱軍横背を衝くべく、道谷原を指して発す。されど脱軍は前日来戦守を此所に張るもの、依て砥沢川の西軍出動を見て、忽然其足もとに蜂起し、弾丸雨注して戦を挑む。西軍恟々(きょうきょう)足の踏む所を知らず、百歩を退きて大に戦ふ所ありけるが、脱軍の圧迫に最早抜く能はず、されば鬼怒川の西軍は兵を四方に進めて、道谷原の包囲攻撃を行ふ。脱軍力闘尚守備危く、茲に於て、夜暗を待つて、藤原方面に轉回す。
 八月十日となりて、会津の援軍は先発して日光表の北方に陣す。脱軍の戦気大に振ひ、今や笹尾村、袴腰、深沢峠の嶮を扼守して勢ひ猖獗を極む。薩州肥前の諸軍大呼して袴腰に迫りけるが、脱軍殊守して対峙頑強なり。攻防の激戦砲声轟々として、互に勝敗あり。さる程に、肥軍は脱陣に躍進して奮撃突戦、主力を茲に注がしめて肉迫すれば、薩軍、其虚を突いて猛進し、遂に脱軍の本據に火を放つ。焔煙猛火は弾丸を加へて、脱軍の横背より襲来し 遂に袴腰の脱軍を屠る。茲に於て、脱軍は潰乱し、みな退いて深沢峠の嶮に據つて是を防ぐ。西軍一勝の威勢は益々是を尾撃し、薩州、芸州、肥前の諸軍を送って、一呼して深沢を攻む。脱軍勇猛巨弾を連発して頑守し、両軍の戦闘昼夜に亘りて勝敗決せず、轟々たる砲声は、四面を震動すること連日、稍々(やや)もすれば西軍は頽敗にあり。茲に於て、西軍は諸道に転戦せる軍勢を集中し、兵を進めて、深沢峠の後背を衝かしむ。依て脱軍は今や挟撃陣に陥り鏖戦苦闘云ふ可たず、深沢峠の嶮戦守有利と雖も、西軍前後の圧迫は、如何にしても防ぐ能はず、みな退きて藤原村を保つにあり。
 八月十七日、西軍は大挙して、愈藤原村に迫る。然れども此所には大鳥圭介の鎮座する所、部下を指揮して部署堅く、頑強勇邁、烈戦奮闘、砲銃弾の運用巧に妙を極め、西軍、必死を尽して力戦するも、容易に抜く能はず、今や作戦の計謀将に尽きむとして、残塁を固守して鏖戦苦闘にあり。さる程に、関東武士の雷名を轟かせし大鳥圭介、夜暗に乗じて会津に向ふ。
 八月二十日となりて、脱軍の一軍は都賀郡富士見崎の嶮に據り、岩砦の中腹を保ちて猛弾を発す。薩州、宇都宮、黒羽の諸軍は本道間道より攻め入りしが。脱軍の防備伏して是を撃つ。砲声轟々猛弾四方に起り、彼我の激戦惨
【コマ 258】
を極めて日も暮れたり。然れども両軍の対峙益々猛悪と為りて、勝敗尚決せず。時に藤原村に火焔の昇るあり、即ち脱軍は要衝を自焼し、糧米を四方に徴発して高原方面に走るに至る。
 八月二十三日、大田原軍塩原を攻む。脱軍一敗して四方に走れば、此時に當りて、会津の援軍は、横川村に宿陣の報あり。茲に於て、脱軍は益々勢を得て躍動す。高原口の脱軍、一躍して黒軍を衝き、今市口の脱軍は捲土重来して土軍の営を冐すあり。かくて脱軍は四方に狂起し、西軍諸方の部署を襲撃しつヽ、次第に横川村にと割據し来る。
 八月二十五日の暁天、芸軍はその三依村の陣営を発し、兵を三道に分ちて先陣の勇を揮つて、横川に迫る。墳立山、恋路山及本道是なり。此所はそれ会津の主として守る所、西軍作戦の陣容また周到ならざる可らず。芸軍、進み来つて砲を発するや。脱軍躍起となりて、忽然墳立山より現はれしと見る間に、更に会軍の精鋭は、本道を猛進して、共に芸軍を撃破し、更に恋路山に戦つて、また芸軍を砕くに至る。依て芸軍の敗士はその抜く可らざるを知りて、先を競ふて混乱するにあり。茲に於て、会軍は是を尾撃し、遂に三依村に到つて兵を引く。
 忽(たちまち)にして荘原口を進撃せる大田原軍、また横川に来つて、脱軍を砲撃すること猛烈也。時に脱軍の大勢は、既に芸軍を追撃し、陣を守るは僅かの隊士 而かも一勝に誇りて守備大に怠る。大軍の突進を望み見て、愕然其為す所を知らず、アワヤ本陣を失はんとせるに際して、三依村より引揚げたる会脱の大勢来る。脱軍、軽装その走駆に便なる所、突如として大軍の一陣に乱入し決戦誠に巧妙を極め、会軍また兵を二道に分ちて脱軍を掩護する奇効あり。大軍苦戦殆んど戦守に苦しみ、対峙いよ/\険悪となりて、日、既に暮る。茲に於て、会軍は愈横川の防備を固め、兵を左右に部署して、本道を扼守し 更に前日来の墳立山及び恋路山には、益々巨門を配りて厳備を尽し、以て西軍の行動に虎視を張る。然るに西軍は前日の敗戦に鑑み、総勢を横川村に集中して、いよ/\会津進撃を令す。二十七日夜は、月、未だ昇らず。此間に於て、部署既に成り、その薩州、宇都宮の諸軍は本道を進み芸州、黒羽、肥
【コマ 259】
前の諸軍は、墳立山及恋路山に相分れて、進撃を開始し、共に二十八日の払暁を待って、総軍一斉に攻め入るにあり。果たして、天、漸く暁を報ずれば 本道に在りし薩州、宇都宮の諸軍は霹靂一声暁霧を破つて、巨砲を天地に発し、以て横川の総攻撃を報ず。茲に於て、三道の砲陣は一斉に砲門を開き巨弾を益々注ぐ。両軍の戦闘天地を震裂し、飛丸は雨霰となりて、隊士を殪す其数を知らず。かくて本道の宇軍は、早くも躍進して、会軍の陣を冐かさむとす。会軍本道を扼して撒弾を発し、大に宇軍の中堅を崩す所ありけるが 黒軍墳立山に迫りて一陣を抜くあり。芸軍一進遂に恋路山を破るに至りて、大田原、肥前の諸軍は、本道に主力を注ぎて猛進す。会軍殊守最早弾つき、今や瓦解せむとして、漸く部署を保つ。墳立山恋路山の敗士来つて本道を防き、龍争虎闘、勝敗此一戦に決せんとする程に、陣後遥かの駅中に當りて火焔の渦き昇るあり。焔煙天に漲り、満目悽惨を極めて、会脱の防備は一度に崩る。蓋し横川本道の接戦、其抜く可らざるを悟り、本陣を自焼して三王峠に據る也。
〈附記〉
 日光方面の西軍は、是より会津に向ふ。脱軍一敗地に塗れて、会軍は南会津郡三王峠に戦守を張る。依て三王峠の戦よりは、以下専ら会津日光口の戦争として、会津包囲総攻撃の部に登載すべし。
 脱軍が日光に據りたる所以のものは、去る五月十五日の戦争に於て、荘厳流麗なる上野東叡山の建造物が、西軍の為に烏有とせられたるに鑑み、又々日光東照宮も其通りと為りては、痛惜禁じ難く、飽くまでも廟地を守らんとの一念に外ならず。

--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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by mo20933 | 2016-04-02 12:22 | その他>その他 | Comments(0)