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(ニ)宇都宮本道の接戦

2016.03/31(THU)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
近代デジタルライブラリー




宇都宮第二次攻防戦要図
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奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
【コマ 245】
(ニ)宇都宮本道の接戦
 脱軍小山を保ち勢猖獗(しょうけつ)を極む。それ小山は奥洲本道の要衝にして、脱軍此所を略して四方を環視するに於ては、西軍援軍の北進を阻隔すると共に、その常総方面に於ける西軍の消長に関する大なり。かくて宇都宮西軍の変報は益々急なるに至りて、その板橋駅西軍本営に於ては、作戦の謀議密なるものあり。さる程に、徳川陸軍を率ゆる大鳥圭介は、四月十九日の払暁を以て、愈宇都宮を指して北進するに至る。時に西軍は松本、黒羽、根笠間、任生、土岐 岩村、田須坂、彦根、大垣、宇都宮の諸軍を以て、宇都宮を守るべく、南方里余の要害に據りて、戦備を厳にして脱軍を待つ。果たせるかな、大鳥圭介土方歳三等は、兵を分ちて驀進し来る。西軍烈戦奮闘して防けとも、軍装常に甲冑を附け、進止誠に遅鈍にして、稍々もすれば脱軍の陣後に落つ。然れども陣を固守して、最後まで防戦せんとす。脱軍の突撃いよ/\猛烈となるに至りて、西軍も遂に防ぐ能はず、茲に於て、兵を収めて宇都宮本城に據れり。一勝に乗ぜる脱軍の猛威尚も本道を猛撃する外に、更に別軍を鹿沼より注ぎて、宇都宮に向ふ。かくて本道の脱軍は早くも駅邑に迫り、巨弾を連発して大に是を撃つ。西軍力闘百砲を以て防ぎけるが、折しも近郷に潜伏せる諸国の浪人、四方より群がり蜂起し、各々隊を編みて脱軍の勢を援けて猖獗を極む。彼我の砲声四方に湧き、戦闘愈猛烈となりて西軍は苦戦にあり。忽ちにして鹿沼の脱軍別隊は、急転直下に西軍後背より攻め上り、脱軍勇猛突進四方に起り、濠を越し、石垣を踏破し、城門を蹴つて猛然たり。西軍殊守遂に敵せず、土崩瓦解となりて、宇都宮は脱軍に屠られ、藩主は館林に走れり
【コマ 246】
 小山の脱軍頑強にして、攻防の砲戦昼夜に亘るも勝敗決せず。四月二十二日となりて、脱軍南進の報あり。茲に於て、西軍には宇都宮攻城戦を張らんとす。脱軍、其計謀を察知し、城を去る一里の要害に進み、更に別軍を伏して待つ。果たして西軍の進撃は起れども、両軍敢死奮闘陣を固守して相譲らず、激闘惨を極めて亘に勝敗あり。かくて薩洲、長洲、黒羽の諸軍は安塚を攻めけるが、此所は何ぞ大鳥圭介が自ら守る所にして、防戦の巧妙西軍を渦巻き、砲銃弾の運用奇効を奏して、西軍の死傷は山と積みたり。此時に當りて、脱軍の別隊は、土方歳三に率ゐられて、薩洲、大垣、因州の陣に迫りて突如として後背より襲撃すれば、西軍大敗殆んと計を失ふに至る。適々薩州 長州、大垣の諸軍は下館を発し、雀宮より突入する所ありしが、脱軍及び桑名の兵は奇略を以て、その中堅を抜くに及びて、西軍遂に戦守の百計つき、兵を纏めて遠く引く。
 時に小山駅の西軍敗績して、今将に悲鳴を挙ぐるの苦境にあり。脱軍勇猛砲銃弾を注ぎて圧迫厳なり。依て下館突破の西軍は援を送りて、その四月二十四日を以て、脱軍の後背より攻め入らしむれば、小山の西軍再び復活し、両道呼応して大に戦ふ。攻防烈戦百砲轟々として天地を震動す。此間に於て、西軍は鬨を挙げて突進す。血戦数合遂に是を抜き尾撃して北進す。
 四月二十五日、下館の西軍は宇都宮に達す。茲に於て、西軍は大呼して再び宇都宮を攻む。それ脱軍の総督将大鳥圭介は軍略あり。脱軍隊士その多くは仏国式陸戦術の練兵にして、精鋭到る所西軍を悩ます掌中にあり、今や宇都宮の要害に據り、四方の関門を扼して厳備す。西軍、兵を進めて宇都宮を攻むれば。脱軍殊守防戦頗る巧妙を極め、西軍の作戦、脱軍の右を衝かば、忽ち左を破りて後背より襲来し、中央を攻むれば左右を突破して挟撃の陣を張り、作戦の巧妙愈神秘の極なり。更に脱軍の精鋭は桑名、幕府七連隊の諸軍を主力として、その神明、八幡の険に據り、援を城下に送りて、西軍の部署を襲うこと屢々。龍争虎撃、弾丸雨注となりて、西軍の鏖戦(おうせん)今や死傷山と積み、苦戦の陣に隊士の疲労大なるを望み見て、脱軍は鬨を挙げて突進す。長軍敗れ、黒軍崩れ、垣軍走りて、西軍の陣営、風静かなり。かくて小山突
【コマ 247】
破の西軍は漸く味方の敗陣に駈け付けて、勢を盛し返し、大呼豨突して宇都宮を反撃す。脱軍堅守百砲を発して是を迎え戦ふ。攻防の砲戦四方に起り、万山呼動して天地裂けむとす。脱軍益々弾を込め必死の頑守は西軍をして攻城の策を失はしむ。此時に當りて、因州参謀河田佐久間(馬)、西軍の敗勢益々甚だしく、隊士また志気沮喪して、戦ふ能はざるを望み見て、馬を躍らせ、弾丸飛行の戦線に起ちて憤激止ます、部下を叱咤して曰く、浪々たる流賊の為め多く兵士を失ふは残念なり、今にして是を破らされば、夜間の接戦益々危険なり、然らば日に未だ没せざるに及びて、城を抜かむ、それ我れに続えて進めと。猛然として外郭に迫る。脱軍是を防ぐに石垣の上にあり。忽にして西軍の打ち出す巨弾は城門を破る、河田、即ち猛進して死傷過多、然れども尚屈せす、益々突進を令して、隊士を激督す。須臾にして垣軍来る、茲に於て、河田は一呼して内郭に突進す。脱軍勇往左右の堅塁より銃を発して戦ふ徳川軍監吉村要人介、抜刀隊を率ゐて河田に肉迫。血戦激闘死傷を踏んで戦ひけるが、吉村遂に敗れて退却す。河田、一勝に乗じて城塁の一角を抜く。凱歌、砲声の間より漏れて、ほのかに外郭に聞ゆ。爾余の西軍之を望み見て鬨を挙げて躍入す。脱軍混乱遂に敗れて四方に潰走し、時既に日は暮れたり 依て西軍は一呼して神明、八幡の両陣に迫る、電光石火、両軍の戦闘猛烈を極めて、脱軍遂に守る能はず、土崩瓦解となりて、日光口に走る。
 西軍は宇都宮を略取して、主力は此所に宿陣す。而して薩州、長州、大垣の諸軍は、奥州白河口偵察を兼ね、西軍先鋒として、国境に向ふべく夜間を行軍するなり。依て宇都宮本軍に於ける、軍議を見るに、明日の白河攻撃につきては、長州、大垣、黒羽、館林の諸軍は南旗宿を攻め、然る後その大垣 黒羽、館林の諸軍は、南湖を廻りて、棚倉街道に進み、薩州、長州、大垣の諸軍は本道より攻む。而して土州、彦根、因州、筑州の諸軍は白坂駅を左折し、黒川村より原方口を攻むるにあり。依て午後四時を総撃の期とし、間道の西軍が、白川(河)後背に至りて、火の手を挙ぐるを以て合図とす。
〈附記〉西軍先鋒は直ちに白河口に接戦し、宇都宮の本軍も翌日白河に進みたり。然るに未だ白河口を抜く能はず、茲に於て、五月十一日を以て、増兵、器具、
【コマ 248】
弾薬を請求するが為め、村田三介は東京に発足し、十二日本営大手門前なる酒井侯の舊藩邸に於て、西郷隆盛と会見、十三日総指揮官大村益次郎に協議し、白河口の内情を報告する所ありけるが、大村は頑として是を排斥したり。西郷は参謀世良に依りて、奥羽の実情を知悉するもの。依て白河口の厳備を説き、益々援の急なるを迫る。茲に於て、彰義隊征伐の議一決し、十四日大総督の裁可あり、即ち彰義隊環視の西軍を送るに至る。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

村田三介 1845-1877
 明治時代の軍人/明治六年陸軍少佐を辞し、西南戦争では小隊長として西郷軍にくわわる/明治十年三月十一日戦死/享年三十三歳



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