(三)上野東叡山の戦 3

2016.03/30(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
近代デジタルライブラリー




2016.03/29
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 慶応四年(1868)五月十五日、上野戦争
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奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
(三)上野東叡山の戦 3
( 2から続く)
【コマ 252】
 さる程に、南門口の戦闘は愈猛烈となりて、山王台の彰軍の猛弾を発する百雷も啻ならず、巨弾益々飛び走つて西軍の中堅を破るに至る。西軍更に精鋭を是に注ぎて攻むれども、彰軍の殊守堅くして南門は容易に抜く能はず、激闘惨を極めて、西軍尚苦戦にあり。時に津軍は大城の外郭なる筋違見附に現はれ広小路を横断して、山下の南辺に逼る。然るに津軍の陣形は、恰も彰軍が南門の横背陣を保つにありければ、彰軍の狼狽一方ならず、為めに志気大に咀喪して部署に動揺起る。西軍是を遠きに望み見て勇を鼓舞し、奮撃突戦、捲土重来して、アワヤ石垣を踏み越さむとす。されば山王台の砲陣に於ては、撒弾を込めて四方を防ぎ、銃手を送りて津軍を撃たしむ。茲に於て、津軍は半ば殪れ、広小路の西軍死傷山と積みたり。連続する激闘に彰軍の南門陣も、弾将に尽きむとして、疲労は更なり。此状況を窺ひたる西軍の参謀西郷隆盛、命令一下総勢を南門口に注ぎ、大呼豨突して疾風迅雷も啻ならず
鹿軍先鋒早くも石垣を踰え、熊本、鳥取の諸軍士堤を蹴破り、岡山、佐賀、尾張の諸軍猛進して、遂に南門を抜き、尚も進みて新黒門に迫る。此時に當りて、谷中門は崩れ、下寺口も敗れて、砲声轟々天を衝き、飛弾四方に交叉して部署は崩れ、硝煙瞑朦上野の山を包みて、隊士の混戦千軍万馬の走駆となりたり。
 熊本、鳥取の諸軍早くも穴稲荷門に裏切るあり。酒井良介、全軍を率ゐて敢死奮闘、遂に敗れて新黒門に到れば、彰義隊准隊長天野八郎等今や西軍の中に乱入して、血戦悲惨なり。その山王台は爆弾を取交はして既に血戦あり。忽ちにして谷中門の西軍は押し来る。渋沢隊長、春日准隊長等敗れに破れて、にげ来るあり。遊撃隊長人見勝太郎、副長伊庭八郎、川村准隊長等また下寺の苦戦に逃げ来る。菅村准隊長等天野八郎と共に新黒門に敗れ、両軍の混戦今や路上となく、林中となく、上野の山を埋めて龍争虎闘、激闘惨を極めて両軍の死傷其数を知らず、隊士鮮血淋漓屍を踏んで、勇往邁進、槍手
【コマ 253】
は進み、抜刀隊は鬨を挙げて発し、銃手は進み或は退きつ、今や屍山血河の戦場となりて、惨また惨を極む。かくて西軍の大勢は廟廓の近辺に群がり、凱歌を挙げて百砲を乱発す。砲弾爆発四方に起り、忽ち廟堂を破壊して火の手を援け、今や中堂、法華堂を始めとし、金殿玉樓は焔烟渦巻きて地を焦し黒煙天に漲り満目悽惨なり。隊士の混戦此間に行はれ、或は自刃するあり、刺しちかいするあり、猛火の中に躍り入るあり。上野の血戦惨風血生ま嗅き間に、輪王堂宮公現法親王は、万苦の中に宮殿を御遁れ給ひ、漸く根岸に忍ばれて、三河島村にと落ちさせ給ふ。夜もすから戸田川の渡りは舟止と為りて、難苦の中に辛ふして、うち越えさせ給ふ御身の上や、黒きすみ染めの法衣をまとい、御足には草鞋を付けさせられ、蓑と笠とに御身をやつして、息も絶え/\疲れに疲れて、僧に援けられつヽ、絲より細き五月雨の、ひねもず降る草野の旅路に、落武者の群に入らせられ、道を探りて奥羽に御下向の先途も憐れなりけり。

〈附記〉上野彰義隊及び援軍中には、追討の命も今日明日には降るまじと、大に油断し、就中、援軍中には竊かに寓居を訪れしもの、或は今や帰陣せむとするもの多々ありて、みな急転直下の戦争に腰を抜かし、帰陣することを止めたるを以て、実戦に當りしは、約盟の彰義隊と援軍の半数なりと云ふ
 輪王寺宮には会津御降下の御予定なり。然れども日光、宇都宮、白河口は西軍の屯営もなりて今や途なく、依て常陸海岸に御避難あらせらる。
 東叡山は徳川二代将軍秀忠の治世に於て、大胆不敵横暴老獪と云ふへき、天海と云ふ坊主、家康死後、家康の遺訓を振り廻し、大に勢力を得たるに図に乗りて、第一に己れ老体川越より伺候は骨が折れるを以て、江戸の片隅を拝領して草庵を営みたしと、小さく申し出たるに始まりて、第二に上野の山を手にし、第三に此所は江戸城の鬼門地なるを以て、平安朝の比叡山を楯として、東照宮を勧請し江戸鎮護の霊場たらしめ、第四に後水尾天皇の第二皇子今宮を迎えて親王門跡と為し、暫くして将軍の全力を注がしめたる霊臺なるを以て、幾多の歳月と、幾億万の土木費を□耗したるかは更なり。その徳川大将軍たる権威を以て諸侯の心血を傾倒したる造営に係り、大に国宝として保存すべき建造物なるは勿論なり。その常行燈は尾張義直、法華堂は紀伊頼宜、輪蔵は水戸頼房、文殊堂は堀直寄、石の鳥居は酒井忠世、鐘樓は土井利勝、三王門は永井尚政と何れも天下の美を尽せるもの。西軍隊士は見當り次第、手當り次第、無暗に破壊するに於ては、山僧たるもの、欲と恨みの経文を上ぐるも當然なり。
【コマ 254】
 彰義隊突破の西軍は是より主力を奥羽平潟口に注ぎ、その白河口には精鋭を送るなり。而して東叡山の敗士は、品川沖に在りし徳川海軍に吸収せられ、後ちに雲を起す榎本武揚に投するなり。
end
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--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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by mo20933 | 2016-03-30 15:09 | その他>その他 | Comments(0)