上野東叡山旗本の血盟

2016.03/27(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)
近代デジタルライブラリー




c0185705_19535425.jpg


 慶応四年(1868)二月二十三日、彰義隊結成さる
--------------------
【コマ 191】
奥羽の巻(第ニ巻)
上野東叡山旗本の血盟
 夫れ、江戸城を北にして上野の丘あり。寛永三年こヽに東叡山寛永寺を建立し、以て江戸城の鎮護と為すと共に、徳川永代の廟堂と定めたり。元来本山は、京都比叡山延暦寺に擬へて、川越喜多院の住職天海と云ふ坊主、徳川の開祖家康の死後、家康の遺言を振り廻して、己れを高めむとて、宗門の神厳を保たむとて、徳川天下の崇敬を収めむとて、是を内幕と為して、その表面には、京都方に対する万一の難に備へむと、畏れ多くも、後水尾天皇の第二皇子今宮を迎えて、親王門跡と為したりき。
 されはかヽる由緒深き霊廟なるを以て、その設計は、一に水戸の東照社を
【コマ 192】
模擬したるものにして、その荘厳天下の美を尽し、而して境内広大なる梵地は、黒門を始め七ツの関門構へを以て、是を圍繞し、更に内部には、文珠楼大悲の閣、盧遮那の象、山王祠稲荷、二基の鐘楼、法華堂、多寶堂、法親王の宮殿に至るまで、みな艶麗を極めたり。僧坊凡て三十六人、その四軒寺と下寺に住する十八坊は、東に在り。錦小路、谷中路、奥寺とに住む十八坊は西に在り。而してこの梵刹の地たる、東は高く、北は根岸三河島の田園に続き、西北は根津谷中の村里に連りて、南は不忍池を扼する也。池水溢れて、その落ち往く忍川の流れには、三橋を架して広小路の街路に臨む。
 徳川武士の末路や、慶応戊辰の春尚浅き正月、悲憤慷慨殺気満々たる頃は輪王寺宮公現法親王(北白川宮能久親王)の、親しく是を管領し給ふ所にして、覚王院、當山の執當となりて、是を司宰する所たり。かくて、大将軍たりし徳川の末路や、十五代二百六十五年を最期に、武門の政権を奉還したる果報は、薩長の手一つにて、徳川慶喜は、今や朝敵の汚名を受け、天地の間に容るヽの地なきに臨みては、皆人の共に想外とする所たり。
 然れは大樹慶喜の身、思ひは鳥羽伏見の苦境を忍びて、漸く江戸に遁れ来るや。江戸の四面は論議上下に熱狂して、宗家の安危も、心もとなかりし徳川麾下旗本の旧武士は、皇室の危態と天下の存亡に、憂苦いよいよ禁じ難く事茲に至りて、同志相語らいつヽ、四谷鮫ケ橋円応寺に会合するあり。こヽにて、同盟嘆願書を草し、以て朝敵の汚名を雪き、併せて君側の奸悪共を郤けて、而して徳川の宗家に対して、その恙なき様にと哀訴する所ありき。時に同座の志士僅かに十有七人。それより二月を暮せは、人目騒がしきに至りければ、居を浅草本願寺に移したり。志士、有為転変の世の中をかこちつヽその成り行きを語り明かせし程に、此挙を聞きて集る者、朝に夕に忽ち五百人に上りければ、茲に於て、志士大同一団結束して、一死を義に捧くと云ふ意味を以て、彰義隊と命名するに至れり。依て徳川の志士、将に是より大に為すあらむと、即ち同志の心を強むるに、左の誓文に署名して、いよ/\硬き血盟に身命を殪さむとす。
【コマ 193】

方今、社稷危急存亡ノ時、臣子盡忠奉国ハ、士道ノ常ニシテ、諸士ノ所仰也。然レトモ、昇平三百年ノ久シキ、志気相弛ミ候ヨリ、盡忠報国ハ、人口ニ膾灸スルノミニシテ、互ニ其実際ヲ見ズ。故ニ、今日ノ形勢ニ至リ候モ、敢テ人ヲ恨ムニ詮ナク、誰カ是ヲ不耻哉。然ラハ、言行不相反、愈身命ヲ抛棄シ、君家ノ御窘辱ヲ一洗シ、反逆ノ薩賊ヲ戮滅シ、上 朝廷ヲ尊奉シ、下万民ヲ安途セシメ、遥カニ神祖ノ聖霊ニ報イ奉ルヘク、有志ノ志ハ、断然一死ヲ天地神明ニ誓ヒ、姓名ヲ此帳ニ記載ヲ仰ク。我等雖不敬、聊カ馳驅ノ労ヲ以テ諸君ノ孤衷ヲ世ニ示サンモノナリ。
          有志血判連書

 漸く盟約成りし頃には、徳川征伐の風潮京師に溢れ、志士群集して、江戸は不穏となれり。依て徳川慶喜も竊かに大城を忍び出て、いよ/\上野東叡山大慈院に蟄居す。されば徳川旗本の彰義隊は、浅草を発して慶喜に随従し今は一千五百人、共に/\上野の丘に據りたり。茲に於て、総軍の編成あり志士勇みて、迫り来る万一の難に、一統連座社稷と共に、殉死を遂けむとは覚悟したる也。彰義隊の統轄左の如し。
     隊長   池田大隈守
     同    渋沢誠一郎
     准隊長  天野八郎
     同    川村敬三
     同    菅沼三五郎
     同    春日左衛門
     頭取   半門五郎
     同    吉田定太郎
     同    本田繁三郎
     同    織田主膳
     軍監   吉村要人介
【コマ 194】
     同    酒井宰輔

 右は彰義血盟団の主脳者也。更に准頭取として、近藤武雄外六名あり。また各隊の頭取として、比留間良八外二十一名あり。此外記録掛組頭として窪田新助外七名あり。会計掛組頭に、田中清三郎外五名あり。器械掛組頭に松崎平三郎あり。
 彰義隊の血盟団、隊士僅かに千五百人と雖も、江戸旗本八幡より抜きすぐりたる豪の者のみ。関東の天地風雲いよ/\急を告けて、一旦有事に処しては、蹶然剣を抜いて、一死を争はむとする者のみ也。宗家の窘辱と討奸の義挙に、尽忠奉国の実を体現して、士道に殪れむのみ。これ実に三河武士の花なり。何ぞ戦勝を期して、余生の栄華を俟つの類ならむや。
 かくて、徳川親藩恩顧の諸藩にては、江戸旗本の義挙を愛して、竊かに援軍を送りて、其数今や千数百人に及へり、輪王寺宮殿下、血盟団に推されて迫り来る禍乱に、陣頭に起たせ給ふ。されば討奸の慨気関八州に靡きて、旭日昇天の慨ありて存する也。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
--------------------
慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
by mo20933 | 2016-03-27 10:42 | その他>その他 | Comments(0)