(六)守山藩と白河口の城代

2016.03/01(TUE)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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※ 守山藩陣屋は、JR水郡線「磐城守山駅」の東側 300メートル付近に在ったようだ


※ 守山藩(もりやまはん)
 陸奥国南部(磐城国)田村郡(現在の福島県郡山市)に存在した藩/水戸藩の御連枝で支藩である/藩庁は守山陣屋である/また、常陸国にも所領を有し、松川陣屋を置いた
--引用・要約;「守山藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.10/16(金)09;13--

 以下、守山藩が列藩同盟を脱し、西軍に下った顛末である
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奥羽の巻(第二巻)/奥州白河口戦史
【コマ 280】
(六)守山藩と白河口の城代
 奥州白河口は二本松藩を首脳として、棚倉、三春、福島、守山、下手渡の六藩、領主の威力を以て武備を張る所、西軍は東山道海陸の全力を注ぎて、此所を突破を謀議するもの、蓋し仙台、米沢、会津の何れを衝くの先決問題とせり。此時に當りて、守山藩主松平大学頭頼升は、白石の列藩同盟より脱して、欵を西軍に通するに至る。今その顛末を概言するに、守山藩は水戸藩の支藩にして、當時十歳の若殿たりし頼之は、水戸烈公二十二男に當り、仙台、南部、会津は共に姻族の間柄にあり。
 初め会津追討問題の白石評定に上るや、列藩一致して是が寛宥赦免の哀願と為りけるも、遂に奥羽同盟して去就を同一軌に取らんとして、こヽに勤皇佐幕の激論生じて方向容易に決し難きに臨み、その守山藩は己れ二万石の分限と雖も、正邪を弁ずるには上下の区別無しとて、家老三浦平八郎は、水戸の家憲に基く純然たる勤皇論を持ち出し、而して是を論難して曰く、数日の
【 281】
論判、帰する所は一ありてニ無し、何時までも左様愚図/\して居ては、小便も相催せる故是にて御免と、断然座を起つて、憚り乍ら大書院の廊下より放尿数丈、一座のものを呆然たらしめし豪のもの、藩主頼升は病辱に在り、若殿頼之まだ十歳の少年、一藩の向背は重臣の預つて力ある所、三浦の所見は遂に藩論と為りて、上下みな勤皇を口にするに至る。
 茲に於て、守山藩は敵地に介在して、所謂勤皇の態度に出でたるを以て、家老三本木鎗三郎、同増子鼎一郎、同遠藤無位の三人は、恰も脱藩人なるかの如き扮装にて、陣中を切り抜いて京都に向ふ。かくて京都二條城に到れば、烏丸侍従より、錦旗一流及び錦肩印(官軍たる表識に錦切れを右の肩に付けたるものヽ由)六十一枚を交附せられ、意気悠々帰国するに至る。
(以下、略)
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--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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by mo20933 | 2016-03-01 13:40 | その他>その他 | Comments(0)