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(一)五稜郭

2016.02/25(THU)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/蝦夷脱藩政庁
近代デジタルライブラリー




(一)五稜郭_c0185705_178081.jpg

桑名藩主松平越中守定敬公
 定敬公、明治元年秋十月、旧徳川脱走の榎本釜次郎と共に蝦夷地割拠の際、函館五稜郭に於て撮影せしものなり
(子爵 松平定晴閣下寄贈)
--写真;引用・「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」--
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【コマ 419】
蝦夷の巻(第三巻)/蝦夷脱藩政庁
(一)五稜郭
 抑も五稜郭は、幕末政局多端の折に臨みて、露国人を始め、外夷漸く吾が日本を窺ふに至りて、その北邊を侵略するの慮ある所より、徳川幕府は是に視る所ありて、蝦夷を統括すると共に、外夷の来襲に備ふる為め、一要塞を築造して、此所を以て北邊鎮護の府と為すにありき。されば函館には奉行所を置き、その本営とするに函館を去る一里、亀田村の地に要塞を設置すべく
【コマ 420】
安政二年工を起して以来、星霜実に三年、元治元年に至りて漸くなる。其間巨大の費用と無限の心血を注ぎて、至重至要の堡塁として巌備を尽す所たり。然ればその目的たるや、既に内治と国防にあるを以て、築工
経営は幕府直轄にして、内地に於ける列藩城郭とは同一に論ず可きに非ず。
 今其設備等に付き、是が解説を見るに、本郭は要塞の形状五稜なるを以て遂に其名ありと云ふ。而して五稜郭の所在地一帯は、一の小丘たに無き所謂函館平野にして、如斯平坦なる地面に本郭は築かれありて、半経僅かに百四十間に過ぎざる要塞なれば、要塞として宏大とは云ふべからざるも、其要部とする掩推は、凡て石垣を以て築積し、其上には横障を附設し在りて、砲座凡て百十九、石垣の高さは水面より一丈五尺、石垣の直下には細き空堀を設けあり。
(略)
・・・さわ云ふものヽ、榎本鎌次郎が天下浪人を引連れて、此地に拠るに至りし所以のもの、豈単純なる反乱の料見には非ずして幕府積年の行脳みたる北邊の国防と蝦夷開拓の国家問題に立脚して、五稜郭築造の本来の意義精神に因みて、身を此の地に寄せ、而して徳川不平浪人を鎮撫すると共に、兼ねては帝国北邊の国防を引き受けむとの目算に外ならず。
[編者曰く] 平坦なる広野の堡塁、石垣の疊々たる築工、砲座の配置より、射撃掩堆の附設の如きは、是れ日本築城史上最近世的にして、西洋築城法は、此邊より伝来したるには非らざるなきか。吾人は史学家の御高説を欲するものなり。
・・・
(以下、略)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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