澤太郎左衛門(南柯紀行)

2016.01/17(SUN)

澤太郎左衛門 南柯紀行




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〈南柯紀行〉
・明治 2年(1869) 1月15日
 沢太郎左衛門等、茂呂蘭(むろらん)に行き砲台築造と山野開拓の調査

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箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)

澤太郎左衛門

生涯・経歴
・天保 5年(1834)  6月 4日
 幕臣(奥火之番)澤太八郎の子として生まれる
・安政 3年(1856)  9月
 箱館奉行書物御用掛として初出仕
・安政 4年(1857)
 長崎海軍伝習所第2期幕臣として選抜 ここで榎本武揚と知り合う。また指導役に勝海舟がいる
・安政 6年(1859)  5月
 築地軍艦操練所教授方出役に任命
・万延元年(1860)
 築地軍艦操練所教授方手伝出役に任命 海軍砲術を教授
・文久 2年(1862)  9月
 江戸幕府が募ったオランダ留学生に選ばれ、長崎を出航。欧米巡察・大砲や火薬についての研究など行う
・慶応 2年(1866) 10月25日
 江戸幕府がオランダに発注、建造した軍艦「開陽丸」にてオランダを出発
・慶応 3年(1867)  3月26日
 帰国
・         5月12日
 軍艦役並勤方(海軍少尉に相当)
・         9月
 軍艦頭並(副艦長に相当)
・慶応 4年(1868)  1月 8日
 大阪城を脱出した将軍徳川慶喜、老中板倉勝静、会津藩主松平容保らの命により大阪湾から出航し、同月11日に江戸に到着
 〈エピソード、逸話〉大阪城から脱出してきた徳川慶喜らから出航を命じられたとき、艦長榎本武揚が入れ違いに大阪城に赴き不在であることを理由に澤が断ると、艦長代理に任命されてしまった。そこで出航しても大阪湾を周回することで榎本が戻るのを待とうとしたが、これも見破られてしまう。澤は「蒸気機関の調子が悪かったので試験運転していた」と説明し、やむなく榎本を残して出航することになったという
・         5月
 隠居届を出し、家督を長男・澤鑑之丞に譲る
・         8月19日
 榎本ら旧幕府海軍に参加して品川沖から脱走。この際に軍艦「開陽丸」軍艦頭(艦長に相当)に任命される
・明治元年(1868) 12月15日
 箱館政権下(蝦夷共和国)で「入札(選挙)」の結果、開拓奉行に選任される
・明治 2年(1869)  1月
 根津勢吉、雑賀孫六郎、上原七郎、朝夷健次郎、上田寅吉らと共に室蘭に赴任(現在の室蘭南部陣屋史跡)
 ※ 室蘭へは総勢二百余名が長鯨艦にて渡ったようだ
 〈エピソード、逸話〉人柄は温厚で怒った顔を家族はみたことがなかった。義侠心があり、室蘭に開拓奉行として赴任時は住民に対して略奪などを行わず、むしろ病人を同行した医師に診させたり、皮膚病で苦しむ患者を自分と同じ宿舎に泊まらせたりしたという
・         5月25日
 五稜郭での榎本降伏( 5月17日)の報を受け、室蘭にて降伏
・         7月 4日
 護送され品川に到着。東京辰ノ口軍務糺問所に入牢
 〈エピソード、逸話〉入牢早々に牢名主になったという
・明治 5年(1872)  1月 6日
 特旨を以て放免
・          12日
 開拓使御用掛
・         2月 3日
 兵部省六等出仕 海軍兵学寮分課勤務
・         9月18日
 海軍兵学寮大教授
・明治 8年(1875) 12月27日
 兵学権頭兼兵学大教授
・明治 9年(1876)  9月 1日
 8月31日に海軍兵学寮が海軍兵学校となり、海軍兵学校教務課長被仰付(五等出仕)
・明治12年(1879)  4月15日
 兵学校砲術課長仰付
・明治15年(1882)
 兵学校教務副総理
 勲五等
・明治18年(1885)  8月20日
 海軍一等教官
・        10月26日
 従五位
・明治19年(1886)  2月17日
 退官
・明治22年(1889)  2月22日
 正四位
・明治31年(1898)  5月 9日
 肺炎にて逝去 享年65。従四位に叙せられた

--引用・要約;「澤太郎左衛門」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.11/11(水)10;26--
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by mo20933 | 2016-01-17 16:04 | その他>その他 | Comments(0)