至誠而不動者、未之有也

2015.04/20(MON)

花燃ゆ 吉田松陰
至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり




2015. 4/19 NHKtvドラマ「花燃ゆ」を観て
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… 、一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫い付け携えて江戸に来り …

安政 5年(1858)
・11月 6日
 薩摩・水戸の者による大老井伊直弼暗殺計画のある事を聞いた松陰は、長州による老中間部詮勝暗殺を計画、藩に武器供与を求めた(本の筆者はこれを”藩への揺さぶり”とみる)
・  29日
 松陰の求めに応じるわけの無い藩は、松陰の厳囚を命じ松下村塾の閉鎖を宣告した
安政 6年(1859)
・ 5月13日
 幕府から松陰の江戸召喚命令が届く
・ 7月 9日
 江戸藩邸に着いた松陰に評定所から呼び出しがあり、伝馬町の牢に入る
・10月25日
 「留魂録」の執筆にかかる
・  27日
 松陰、伝馬町牢刑場で処刑、三十歳の生涯を閉じた
--引用、要約;吉田松陰「留魂録」1990年10月31日初刷・訳者 古川薫
 発行所 株)徳間書店--
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安政 5年(1858)
 幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される
安政 6年(1859)10月27日
 安政の大獄に連座し江戸に檻送され、評定所で取り調べの結果斬首刑に処された。享年三十(満二十九歳没)
--引用・要約;「吉田松陰」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2015.04/19(日)05:09--
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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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by mo20933 | 2015-04-20 17:15 | その他>その他 | Comments(0)