七、関山戦争(凌霜隊戦記)

2015.01/05(MON)

七、関山戦争




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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

七、関山戦争
慶応 4年(1868)
・ 9月 1日~ 3日
p.26
 此地より半道、此日夕方着、(此地は左右高山にて左の山岸に川有り、是は横川よりの続川なり。宿の入口には中等の山有り。防衛にはよき山なり。)小山田氏にも難無く引き取る。一統着の上軍議評定一決して、川向山へ登り二ヶ所、宿入口山へ一隊、凌霜隊には宿陣の右、裏山へ登り防戦の手筈相極る。行還へも人数を配り、此日は番兵ばかりにて敵来らず。小山田氏には人数配り相済み、市野村へ相廻らる。
 (大内峠破れしは全く頂の間へ人数不足故也。是へ人数配らざるは総督の小山田氏不策也。此人後を構はず真先に進みたるゆゑ、頂の本陣は誠に無人となり、総督の身分にて跡の押勢にも構はず先へ進むは勇のやうに見ゆれ共不策也。此道堅固ならばか様の瓦解せぬものと一同残念に思ふ。)
大内へ向ひし敵は、長、薩、芸、宇都宮、黒羽杯にて、此日は芸州先鋒也。手詰には弱兵にて刀を見て逃走る事おかし。敵見ゆれば大声発して追ひかければ多くは器械を投げ捨て、谷へ逃げかくれける。それ故、味方は大いに苦戦すといへども人数一向損しず、討死、手負二十人は過ぎず。敵は余程損したらん。芸州藩、剣道盛んならば味方過半討たるべきに運つよき事也。
 さて、九月朔日は早朝より敵押来り、大小砲発砲す。味方も待ち設けたることなれば、それぞれ人数を配り、向山並びに宿入口の山より発射して防戦す。敵も追々所々の山々へ陣取り、互に放発する事数刻なれども、味方は必死と防ぐゆゑ、終日の戦ひも手負、死人わづかにて互に相引きして対陣す。夜に入りて敵、味方所々山々へ篝をたき只さぐりの砲声ばかりにて対陣したる有様、実に勇ましくぞ見えにけり。
 さて、翌日は昼頃より戦争始り、敵より向山の味方へカラナードを発射する。味方大いに困窮也。されども必死と
p.27
防戦す。宿入口には会の横山隊(向山は唐木隊也。)三方より小銃を受けながら、少しも恐れず防戦す。裏山には凌霜隊、敵来たらば打払はんと待ち懸くる。八ツ時頃砲声次第に薄らぐゆゑ、如何の訳とふしんに思ふ時、左右の一段高き山へ敵人数を廻し、合図の小旗を振るとひとしく、左右一度に時を作り、打ち出すこと雨のごとし。凌霜隊は待ち設けたる事なれば時の声を合せ打ち出す。横山隊も頻りに発放す。唐木隊も人数を二手になし、一方は今廻り来し敵を防ぎ、一方は往来の敵を防ぎ必死と防戦す。諸隊にも斯くの如きゆゑ破れず。今日も夕方迄戦争にて夜に入り互に篝をたき探りの砲声ばかり也。・・・
〈後略〉
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行動日録 
・ 一日 関山宿の戦闘 早朝より敵押し寄せ砲、銃の打ち合い数刻、味方必死の防戦で互いに相引きして対陣。夜は山々に篝火をたきさぐりの砲声が響く
・ 二日 昼頃より戦闘開始、敵の発砲するカラナードに苦しむ。味方は横山隊、唐木隊、凌霜隊など奮戦。諏訪隊ほか城下から加勢あり三百人にも達して味方の戦意上がる
・ 三日 昼頃より戦闘開始、互いの砲声天地にとどろく。凌霜隊、諏訪隊裏山に散伏し、大敵を前に必死の防戦をする。小出於菟次郎重傷、林定三郎(25)戦死。午後四時頃、味方弾薬尽きて後退。凌霜隊も散り散りに引揚げる
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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by mo20933 | 2015-01-05 13:32 | 凌霜隊戦記 | Comments(0)