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二、小山戦争(凌霜隊戦記)

2014.12/26(FRI)

二、小山戦争




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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

二、小山戦争
慶応 4年(1868)
・ 4月16日
p. 7
 十六日、早天出立。結城近く進む処、斥候のもの追々走り帰り、結城にはそれぞれ人数配りこれ有る由に付き、表の方へは七連隊草風隊相廻り、裏口は貫義隊凌霜隊也。
 さて、貫義隊、凌霜隊追々敵陣近く進み七八丁此方の森又は畑よりサグリを打ち、敵の模様を見合せ(此敵、彦根笠間宇都宮壬生也)放射しつつ進みけれ共敵には更に放射せず。味方益々麦畑へ押し出し散伏隊と成りて敵陣五六丁と覚しき時、味方二手に別れ、貫義隊には小山宿へ寄せ敵の正面へ向ふ。凌霜隊は右の方小山新田と申す畑へ陣取る。其時敵より榴弾発射す。それより互に打ち合ふこと暫く也。貫義隊は鯨波声を揚げて進み適度にて二列打をす。此時敵の死傷人多也。其の内笠間人数多し。是に敵恐れて引色に成けるを猶も連発す。凌霜隊にも新田の方より進み発射す。敵よりも大小砲放発す。され共味方必死と成りて打ち懸け打ち懸け進むゆゑ敵兵こらへず引き退く。これに依り、百姓家悉く焼き払い、味方双方にて討ち取る首十四五、大砲十二門、弾薬箱拾掉、器械長持沢山分捕り大勝利也。味方の内傷人、貫義隊三四人、草風隊一人、凌霜隊には田中亀太郎頭を打たれて即死す。菅沼銑十郎膝の上を打たれ手負ひ(若松病院へ罷越し七月十七日死去)新田栄次郎と申す百姓の介抱を受け滞り無く隊へ加わる。(十月十九日引取の節、栄次郎を呼び田中亀太郎の様子相尋ね候処、自分明地所へ葬り置き候由申し聞け候)それより直ちに小山宿を左へ大瀬川を歩行渡り、貫義隊を始め残らず引揚る。其の内に敵、兵隊を立て直し再び小山宿押し出す。矢野原与七、牧野平蔵、草風隊にて一人、弾はげしきに付き、一二丁引き退く。暫く見合せ居る内、惣引き揚げと成るを知らず。矢野原には畑にて平臥又は縦横に走り廻る内刀抜けしを知らず、・・
〈後略〉
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行動日録
・一六日 小山宿の戦闘 彦根、笠間、壬生の連合軍を小山宿に破って大勝利。田中亀太郎(29)戦死、菅沼銑十郎(42)重傷、白岩源助(37)逃亡
     矢野原与七、牧野平蔵ら味方とはぐれ、後矢野原一人となる。本隊、大平山泊
・一七日 本隊、出流山泊。山片俊三(35)逃亡
     矢野原は勝願寺駐留の旗本、三宅大学(八連隊)に付属して戦いに参加して大勝利
・一八日 本隊、大久保村泊
     矢野原は三宅大学に付属して鹿沼宿泊。鹿沼では七連隊、八連隊合併して千余人となる
・一九日 本隊、大沢泊。矢野原の隊、宇都宮に入る
・二〇日 本隊は今市に着き会藩日向内記隊に合兵して百余人
     矢野原、今市で本隊に戻る
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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