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福原氏墓所(実相院)

2014.12/12(FRI)

福原氏墓所 大田原市佐久山・実相院




福原氏墓所(実相院)_c0185705_11354497.jpg

写真;2014.12/12

佐久山城跡(2014.10/28)
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以下、現地の案内板から

     昭和47年 3月 1日指定
     大田原市佐久山2243
     所有者 実相院
大田原市指定史跡
ふくわらしぼしょ
福原氏墓所

 福原氏の始祖四郎久隆より資郡までは福原永興寺より改葬されたもので、資宣・資明・資克・資順は東京浅草曹源寺に葬られましたが、改葬されたものと思われます。福原氏歴代の墓所として、江戸時代領主層の霊屋の様式をそのまま残しています
 那須一族の福原氏は、那須太郎資隆(すけたか)の四男久隆が福原に分知され、上福原といわれた片府田に館を構え福原氏を称したことに始まるとされます。戦国時代に大田原資清の子、資孝が養子に入り、永禄6年(1563)佐久山氏を滅ぼし、天正18年(1590)資孝の子、資保は豊臣秀吉の命により片府田から佐久山四ツ谷(御古屋敷)に移りました。さらに元禄15年(1702)、福原資倍がかっての佐久山城に陣屋を移し、交代寄合として佐久山3500石の支配を行い、明治2年(1869)、資生に至り版籍を奉還しました
     大田原市教育委員会
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実相院
福原氏墓所(実相院)_c0185705_16401941.jpg

写真;2014.12/12
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佐久山宿
佐久山宿(さくやまじゅく)は、奥州街道(奥州道中)の21番目の宿駅である。現在の栃木県大田原市佐久山

概要

 佐久山宿は、江戸時代、かつて佐久山城があった土地が奥州街道(奥州道中)喜連川宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国那須郡にあった。天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、佐久山宿は家数121軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、人口473人であった。佐久山宿本陣は井上家や村上家が勤めた
 喜連川宿から奥州街道(奥州道中)を北に向かうとつるが坂を通り曽根田に至る。曽根田では江川を橋で渡っていた。この川の手前岸には、明治天皇が行幸した際に使用された休憩所の碑が立っている。対岸に着いた後、さらに北上すると福原道(ふくはらのみち)を分岐する追分を経て佐久山宿へと着く
 佐久山は下野国の名家のひとつである那須氏発祥の地である。那須資隆の子である那須泰隆がこの地に佐久山城を築城して住まい、はじめて佐久山氏を名乗った。永禄年間には福原資孝が佐久山城を攻めて落城させ、その後元禄年間は福原氏子孫の福原資倍が佐久山城を修復して入城、以後、城下町の機能を併せ持つ宿場となる
--引用・要約;「佐久山宿」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2013.12/16(月)06:55--



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