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内儀茂助之墓(鹿島神社)

2014.10/18(SAT)

内儀茂助之墓 白河市表郷下羽原吉田 115・鹿島神社




内儀茂助之墓(鹿島神社)_c0185705_2248352.jpg

写真;2014.10/18

・内儀茂助之墓
 表郷村下羽原
 鹿島神社隣り緑川氏敷地内(※近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」)
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内儀茂助 ; 棚倉藩/弾薬方/明治元年六月二十四日棚倉で戦死
※ 六月二十四日は棚倉城落城の日である
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

 2. 棚倉城落城(再掲)
戊辰戦争と棚倉藩(2012.12/06)
--慶応四年(1868)六月--
・西軍は金山を出て二手に分かれ、薩・長・大垣・黒羽の兵は間道を通り小菅生から小丸山に出て棚倉を砲撃
 戊辰戦争記阿部正功家記によると
 「西軍金山口を破りて、熊坂越の間道を経て棚倉城の西南に迫りて発砲頻りなり」
 とある。小菅生を通ったのか熊坂であったのかは不明
・一隊は本堂を進み逆川に至る(長・土・忍の兵)
 逆川の東軍は防戦するが、先に相馬の援兵は逆川から浅川へ、会津兵は須賀川へ引き揚げてしまっていた。棚倉藩兵孤軍支えきれず城下に退く
 釜子にいた兵も棚倉の砲声を聞き西軍を横撃しようと進軍したが、社川が増水していて来援は叶わなかった
・四方に出兵し、相馬・会津の兵は引き揚げ、来援は来たらず、城を守るのは棚倉藩兵三百士。死力を尽くしても城を支えることは不能とみて、自ら城と城下に火を放った
 慶応四年六月二十四日正午頃、棚倉城落つ
 棚倉藩戦死者
本多九左衛門、奥原一、三沢錦八郎、内儀茂助、上田源八、村田磯吉、小林庄次郎、武川子之吉、郷夫・惣内、郷夫・新吉、郷夫・竹次郎
 東白川郡史によると
「六月二十四日、棚倉城落城。
夜半の大雨、暁に至りて竭み、炎晴、銕を燬く時、六刻、砲声、殷々,城下を圧し,金山の関門破ると伝ふ、老若先づ走り、男女、家を舎て北ぐ、全街人無き、狗子、影を滅す、官、赤館に迫る、大砲隊長、吉田七郎左衛門、其子、国之進を始め、部下を従い防戦死力を尽す、突如、小丸山上、銃声、急霰の如く起る、支え難きを覚り、砲を壕に投じて走る、先是藩兵、火を城に放つ、焰、天に渦き、英俊苦心の名城、一瞬にして消ゆ、次いで、炬を街に挟む、官、来りて水を濺くも、古町以南、全く玄野と化す」
 西軍の記によると
官軍の進撃頗る猛烈、朽ちたるを摧らが如く..
 この日東軍の首級十五、長藩手負三人、土藩即死一人、手負一人とある
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↓鹿島神社
内儀茂助之墓(鹿島神社)_c0185705_22265426.jpg


--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--



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by mo20933 | 2014-10-18 22:23 | 白河市