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松平照姫(院内御廟)

2014.10/15(WED)

会津藩主院内御廟 会津若松市東山




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写真;松平家墓所・2014.10/11
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以下、現地の案内板から

松平照姫(一八三二~一八八四)
上総飯野藩主保科正丕(まさもと)の三女に生まれ十一才の時、会津藩八代藩主松平容敬の養女となる。豊前中津藩主奥平昌服のもとに嫁ぐが再び会津に戻る
姉として九代藩主容保をささえ戊辰戦争鶴ヶ城籠城戦では城内の婦女子を指揮し負傷者の看護や打ち込まれた砲弾の処理にあたるなど西軍の攻撃から一ヶ月もの間城を守った。開城後滝沢の妙国寺に謹慎の身となった照姫は髪を落とし照桂院と名を改める
 荒れはてし 野寺のかねもつくづくと
        身にしみ増さる 夜あらしの声
謹慎が解かれた後は、容保と和歌を交わすなど和歌に親しむ日々を送るも明治十七年二月逗留先の旧会津藩家老山川邸にて五十三才の生涯を閉じた
 戒名 照桂院殿心誉香月清遠大姉
大正六年戊辰殉難五十年祭にあわせ容保公が仮埋葬された新宿の松平家菩提寺正受院より院内御廟に改葬される際照姫も松平一族として松平家墓所に改葬された
     財団法人 会津保松会
     会津松平家奉賛会
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飯野藩

飯野藩(いいのはん)は、上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)の飯野陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた
飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる

歴史

慶安元年(1648)6月26日、7000石を領していた保科正貞が大坂定番となって摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として諸侯に列し、ここに飯野藩を立藩した。正貞は初めは兄である保科正光の養子となっていたが、兄が将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度は廃嫡された。だが、正之が秀忠の子として認められると、保科氏嫡流を存続させるために正貞が改めて同氏の家督を継ぐことになったのである。正貞は寛文元年(1661)11月1日に死去し、後を保科正景が継いだ。このとき、正景は正貞の養子であった保科正英に2000石を分与している。延宝5年(1677)7月7日、正景は大坂定番になったことから、丹波国天田郡の内に5000石を加増された。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務めた。特に最後の藩主・保科正益は大坂定番を務めた後の慶応2年(1866)5月26日に若年寄にまで栄進し、第2次長州征伐では幕府軍の指揮を務めた
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、正益は連座によって謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑したため、罪を許された。翌年、版籍奉還により藩知事となるが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で飯野藩は廃藩となった。その後、飯野県、木更津県を経て、千葉県に編入されたのである

--引用・要約;「飯野藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2014.04/11(金)15:54--



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