奥羽越列藩同盟
2014.09/29(MON)
奥羽越列藩同盟 仙台藩領、白石城
siroisi
写真;白石城天守(三階櫓)を舛門辺から・2014.09/28
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奥羽越列藩同盟
戊辰戦争に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が輪王寺宮(北白川宮能久親王)を盟主として新政府の圧力に対抗しようと結成された同盟である
元々会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的としたが、この嘆願が拒絶された後は新たに「北部政権」の確立を目的とする軍事同盟に変わった。会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられて幕府の要職にあり、薩長と対立したため「朝敵」とされ、新政府からの攻撃対象となったのである
白石列藩会議
慶応四年(1868)
・閏四月十一日
奥羽十四藩は仙台藩領白石城において列藩会議を開き、会津藩、庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」を奥羽鎮撫総督に提出したが却下された
・閏四月十九日
奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵、福島で暗殺される
「奥羽列藩同盟」の誕生
・閏 4月23日 新たに十一藩が加わり
・ 5月 3日 二十五藩による奥羽列藩同盟となる
・ 5月 4日 長岡藩が加盟
・ 5月 6日 新発田藩等の北越五藩が加入し
計三十一藩による「奥羽越列藩同盟」が成立した
--引用・要約;「奥羽越列藩同盟」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』
2014.09/01(月)12:21--
>第四章 奥羽列藩の白石会議(2013.01/15)
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以下、現地の案内板から
しろいし
白石城〈 別名 益(桝)岡城〉の歴史
天正十九年(一五九一)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった
慶長三年(一五九八)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治維新まで二百六十余年間片倉氏の居城となった
白石城は標高七十五メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ九メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓そして巽櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を構え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった
元和元年(一六一五)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変換期には一役を担う重要な城であった
*
歴代の城主と主な出来事
一、刈田左兵衛尉経元 寛治年中より五代百一年間居城したと伝えられている
二、白石秀長 文治五年より十五代三百九十七年間と数えられる。白石宗実の代の天正十四年安達郡塩松宮森城に移る
三、伊達家臣屋代勘解由兵衛景頼 天正十四年より五か年
四、蒲生家臣蒲生源左衛門郷成 天正十九年より七か年
五、上杉家臣甘糟備後守清長 慶長三年より二か年
六、伊達家臣石川大和守昭光 慶長五年より二か年
七、伊達家臣片倉小十郎景綱 慶長七年より二百六十七年間
八、南部彦太郎利恭 明治元年より明治二年七月二十一日まで
九、三陸磐城按察府 明治二年八月十日より明治三年十月六日まで
十、兵部省兵隊屯所 明治四年四月より十一月まで
明治七年白石城民間に払下げ解体
明治三十三年白石町益岡公園設定
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写真;天守(三階櫓)内部・2014.09/28
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
奥羽越列藩同盟 仙台藩領、白石城
siroisi
写真;白石城天守(三階櫓)を舛門辺から・2014.09/28
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奥羽越列藩同盟
戊辰戦争に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が輪王寺宮(北白川宮能久親王)を盟主として新政府の圧力に対抗しようと結成された同盟である
元々会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的としたが、この嘆願が拒絶された後は新たに「北部政権」の確立を目的とする軍事同盟に変わった。会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられて幕府の要職にあり、薩長と対立したため「朝敵」とされ、新政府からの攻撃対象となったのである
白石列藩会議
慶応四年(1868)
・閏四月十一日
奥羽十四藩は仙台藩領白石城において列藩会議を開き、会津藩、庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」を奥羽鎮撫総督に提出したが却下された
・閏四月十九日
奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵、福島で暗殺される
「奥羽列藩同盟」の誕生
・閏 4月23日 新たに十一藩が加わり
・ 5月 3日 二十五藩による奥羽列藩同盟となる
・ 5月 4日 長岡藩が加盟
・ 5月 6日 新発田藩等の北越五藩が加入し
計三十一藩による「奥羽越列藩同盟」が成立した
--引用・要約;「奥羽越列藩同盟」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』
2014.09/01(月)12:21--
>第四章 奥羽列藩の白石会議(2013.01/15)
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以下、現地の案内板から
しろいし
白石城〈 別名 益(桝)岡城〉の歴史
天正十九年(一五九一)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった
慶長三年(一五九八)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治維新まで二百六十余年間片倉氏の居城となった
白石城は標高七十五メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ九メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓そして巽櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を構え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった
元和元年(一六一五)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変換期には一役を担う重要な城であった
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歴代の城主と主な出来事
一、刈田左兵衛尉経元 寛治年中より五代百一年間居城したと伝えられている
二、白石秀長 文治五年より十五代三百九十七年間と数えられる。白石宗実の代の天正十四年安達郡塩松宮森城に移る
三、伊達家臣屋代勘解由兵衛景頼 天正十四年より五か年
四、蒲生家臣蒲生源左衛門郷成 天正十九年より七か年
五、上杉家臣甘糟備後守清長 慶長三年より二か年
六、伊達家臣石川大和守昭光 慶長五年より二か年
七、伊達家臣片倉小十郎景綱 慶長七年より二百六十七年間
八、南部彦太郎利恭 明治元年より明治二年七月二十一日まで
九、三陸磐城按察府 明治二年八月十日より明治三年十月六日まで
十、兵部省兵隊屯所 明治四年四月より十一月まで
明治七年白石城民間に払下げ解体
明治三十三年白石町益岡公園設定
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写真;天守(三階櫓)内部・2014.09/28
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by mo20933
| 2014-09-29 15:45
| >白石市