舞鶴城址(三春城)
2014.09/07(SUN)
舞鶴城址 三春町大町164周辺
写真;舞鶴城址、2014.09/03
この標柱は本丸と二の丸の境辺にある
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三春藩
三春藩(みはるはん)は、磐城国田村郡(旧陸奥国南部、現在の福島県田村郡三春町)に存在した藩の一つ。藩庁は三春城である
概要
・・・
戊辰戦争の際には他の東北諸藩同様に新政府側であったが、奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵暗殺と会津・旧幕府軍による白河城攻略による白石会議が奥羽列藩同盟に変貌した為、これに加わる。官軍迅衝隊による棚倉城落城と、仙台藩の棚倉城防衛放棄ともとれる背信的行為、これに加え平潟の官軍の上陸により防衛が不可能と判断され、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や郷士河野広中の斡旋もあり無血降伏をする。これにより逆賊となることは回避され、藩内を兵災から守り、多くの人命が救われ、所領も安堵されて維新を迎えることが出来た
後述のように戦闘行動中の直接的な裏切り(列藩同盟軍への攻撃行為)に関しては十分に証明できないものの、三春藩の新政府軍への帰順の経緯については、列藩同盟側の立場から、また当時の武士道的価値観から道義的に許容しがたいものがあり、三春藩の降伏により窮地に追い込まれた二本松藩の展開した死闘との対比もあり、一般に「寝返り」「裏切り」との評価がなされている
なお、三春藩が裏切ったとされる淺川の戦闘で「七月十六日、塩森主税棚倉屯集の官軍を進撃、三春、二本松、会津棚倉の兵を合併、奥州石川郡浅川古館山より進て浅川の渡を隔て砲戦す、釜之子と申所より官軍会津の兵を破り浅川の後にでると、三春藩中途にして反覆す、頗る苦戦に及び、各藩共支る能はず(『仙台藩記--復古記』13巻57頁)」とあるが、『二本松藩史』には「十六日丹羽、奥野、野崎の諸隊、仙台兵一個大隊、会津兵三個小隊と合して浅川の敵陣を攻めむ、先頭終日、東軍利あらず。(69頁)」とあり前後が矛盾している。又、「七月十六日に至って同し近郷なる浅川という処へ、賊兵多く襲い来り、一挙に此処を攻破らんとせし事有り、此時浅川には土、彦の兵隊にて守りけるか、多くの賊兵寄ること均しく、大小砲を持って烈しく打立、防戦さまさまに手術を尽くし時移るまで防ぐこといえども、今日の敵は大勢にして、また必死となって来たりし事なれば、その矛先は当り難く、既に危なくも見へし処へ、又此あたりなる釜之子に居し薩の兵具隊よりして、此砲声を聞つけ、何事の出来しやらんと馳著て来たりしか、今血戦の最中なるゆへ、直ちに敵のうしろの方より小銃を以って打ちければ、是にて敵は忽ち崩れ、討たるる者は数多く、皆散々に逃行けり、是より後は、此棚倉城の敗兵、再び此辺に足を留めず、皆々北方へ落行きしとなり(『復古記』13巻57頁)」と書かれており、通説の裏切りは史料の上では証明できない
・・・
--引用・要約;「三春藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2013.12/19(木)03:45--
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以下、現地の案内板から
三春城跡
永正元(一五〇四)年田村義顕が築城したと伝えられ、以後田村氏・松下氏等の居城となる。
正保二(一六五四)年、秋田俊季が五万五千石で入城し、明治維新を迎えた。
近世の城は、本丸・二の丸・三の丸を中心に形成され、本丸には表門・裏門・三階櫓などの建造物が置かれていた。藩主は現三春小学校の場所に屋敷を構え、そこで政治を行った。
明治初年廃城となり、建造物・石垣のほとんどを失ったが遺構の保存状態は良く、また県内で中世から近世にかけて同じ場所に城が築かれた例も少ないため、貴重な史跡といえる。
三春町教育委員会
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写真;↓二の丸を経て本丸に向う石段(麓から本丸まで結構な急登なり)
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
舞鶴城址 三春町大町164周辺
写真;舞鶴城址、2014.09/03
この標柱は本丸と二の丸の境辺にある
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三春藩
三春藩(みはるはん)は、磐城国田村郡(旧陸奥国南部、現在の福島県田村郡三春町)に存在した藩の一つ。藩庁は三春城である
概要
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戊辰戦争の際には他の東北諸藩同様に新政府側であったが、奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵暗殺と会津・旧幕府軍による白河城攻略による白石会議が奥羽列藩同盟に変貌した為、これに加わる。官軍迅衝隊による棚倉城落城と、仙台藩の棚倉城防衛放棄ともとれる背信的行為、これに加え平潟の官軍の上陸により防衛が不可能と判断され、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や郷士河野広中の斡旋もあり無血降伏をする。これにより逆賊となることは回避され、藩内を兵災から守り、多くの人命が救われ、所領も安堵されて維新を迎えることが出来た
後述のように戦闘行動中の直接的な裏切り(列藩同盟軍への攻撃行為)に関しては十分に証明できないものの、三春藩の新政府軍への帰順の経緯については、列藩同盟側の立場から、また当時の武士道的価値観から道義的に許容しがたいものがあり、三春藩の降伏により窮地に追い込まれた二本松藩の展開した死闘との対比もあり、一般に「寝返り」「裏切り」との評価がなされている
なお、三春藩が裏切ったとされる淺川の戦闘で「七月十六日、塩森主税棚倉屯集の官軍を進撃、三春、二本松、会津棚倉の兵を合併、奥州石川郡浅川古館山より進て浅川の渡を隔て砲戦す、釜之子と申所より官軍会津の兵を破り浅川の後にでると、三春藩中途にして反覆す、頗る苦戦に及び、各藩共支る能はず(『仙台藩記--復古記』13巻57頁)」とあるが、『二本松藩史』には「十六日丹羽、奥野、野崎の諸隊、仙台兵一個大隊、会津兵三個小隊と合して浅川の敵陣を攻めむ、先頭終日、東軍利あらず。(69頁)」とあり前後が矛盾している。又、「七月十六日に至って同し近郷なる浅川という処へ、賊兵多く襲い来り、一挙に此処を攻破らんとせし事有り、此時浅川には土、彦の兵隊にて守りけるか、多くの賊兵寄ること均しく、大小砲を持って烈しく打立、防戦さまさまに手術を尽くし時移るまで防ぐこといえども、今日の敵は大勢にして、また必死となって来たりし事なれば、その矛先は当り難く、既に危なくも見へし処へ、又此あたりなる釜之子に居し薩の兵具隊よりして、此砲声を聞つけ、何事の出来しやらんと馳著て来たりしか、今血戦の最中なるゆへ、直ちに敵のうしろの方より小銃を以って打ちければ、是にて敵は忽ち崩れ、討たるる者は数多く、皆散々に逃行けり、是より後は、此棚倉城の敗兵、再び此辺に足を留めず、皆々北方へ落行きしとなり(『復古記』13巻57頁)」と書かれており、通説の裏切りは史料の上では証明できない
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--引用・要約;「三春藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2013.12/19(木)03:45--
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以下、現地の案内板から
三春城跡
永正元(一五〇四)年田村義顕が築城したと伝えられ、以後田村氏・松下氏等の居城となる。
正保二(一六五四)年、秋田俊季が五万五千石で入城し、明治維新を迎えた。
近世の城は、本丸・二の丸・三の丸を中心に形成され、本丸には表門・裏門・三階櫓などの建造物が置かれていた。藩主は現三春小学校の場所に屋敷を構え、そこで政治を行った。
明治初年廃城となり、建造物・石垣のほとんどを失ったが遺構の保存状態は良く、また県内で中世から近世にかけて同じ場所に城が築かれた例も少ないため、貴重な史跡といえる。
三春町教育委員会
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写真;↓二の丸を経て本丸に向う石段(麓から本丸まで結構な急登なり)
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
by mo20933
| 2014-09-07 09:42
| 三春町