佐々木只三郎墓(会津武家屋敷)
2014.09/05(FRI)
佐々木只三郎墓 会津若松市東山町石山・会津武家屋敷
写真;2014.09/02
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ささき たださぶろう
佐々木只三郎
天保四年(1833)-慶応四年(1868)一月十二日は、江戸時代末期(幕末)の武士・旗本、京都見廻組隊士。泰昌、唯三郎とも。兄に手代木勝任(直右衛門)がいる
天保四年(1833)、陸奥国の会津藩領内(福島県)において会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。親戚であった旗本・佐々木弥太夫の養子となる。神道精武流を学び「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を務めたと伝えられる
京都守護職の会津藩主・松平容保に従う兄・手代木直右衛門を動かし、清河八郎の策を容れ、文久二年(1862)、浪士組結成に伴い京都へ上る。只三郎は決裂した清河に抗し、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らった。文久三年(1863)には江戸へ戻り、麻布で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺する。元治元年(1864)には京都見廻組を率い、新撰組と共に尊攘派志士から恐れられ、禁門の変にも出動。元見廻組隊士・今井信郎の証言から、慶応三年(1867)の京都近江屋で土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされる(近江屋事件)
戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、樟葉(枚方市付近)で腰に銃弾を受けて重傷を負い、慶応四年(1868)、和歌山に敗走中、紀三井寺で死去。享年35。墓所は和歌山県和歌山市の紀三井寺(きみいでら)、福島県会津若松市「武家屋敷」内
--引用・要約;「佐々木只三郎」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.04/18(金)11:47--
*
・佐々木只三郎 講武所剣術指南/会津藩士手代木直右衛門の弟/号高城/文久三年四月十三日江戸麻布一ノ橋で清河八郎を斬殺/元治元年四月京都見廻組与頭/慶応三年十一月京都で坂本竜馬らを襲殺したといわれる/明治元年一月伏見で傷/紀州紀三井寺滝本院に葬り、会津若松市武家屋敷に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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写真;会津武家屋敷
家老屋敷 西郷頼母邸
西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた千七百石取りの家柄であった。
江戸時代中期の和様建築の粋を集めた、豪華かつ壮大なこの家老屋敷は、敷地面積二,四百坪、建築面積二八〇坪を誇り、三十八室もの部屋を擁していた。
四脚門や式台玄関、それに冠振りぐしに九曜の紋章を付けた鬼瓦などは、格式の高い西郷家ゆえに許された特権であった。
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
佐々木只三郎墓 会津若松市東山町石山・会津武家屋敷
写真;2014.09/02
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ささき たださぶろう
佐々木只三郎
天保四年(1833)-慶応四年(1868)一月十二日は、江戸時代末期(幕末)の武士・旗本、京都見廻組隊士。泰昌、唯三郎とも。兄に手代木勝任(直右衛門)がいる
天保四年(1833)、陸奥国の会津藩領内(福島県)において会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。親戚であった旗本・佐々木弥太夫の養子となる。神道精武流を学び「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を務めたと伝えられる
京都守護職の会津藩主・松平容保に従う兄・手代木直右衛門を動かし、清河八郎の策を容れ、文久二年(1862)、浪士組結成に伴い京都へ上る。只三郎は決裂した清河に抗し、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らった。文久三年(1863)には江戸へ戻り、麻布で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺する。元治元年(1864)には京都見廻組を率い、新撰組と共に尊攘派志士から恐れられ、禁門の変にも出動。元見廻組隊士・今井信郎の証言から、慶応三年(1867)の京都近江屋で土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされる(近江屋事件)
戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、樟葉(枚方市付近)で腰に銃弾を受けて重傷を負い、慶応四年(1868)、和歌山に敗走中、紀三井寺で死去。享年35。墓所は和歌山県和歌山市の紀三井寺(きみいでら)、福島県会津若松市「武家屋敷」内
--引用・要約;「佐々木只三郎」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.04/18(金)11:47--
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・佐々木只三郎 講武所剣術指南/会津藩士手代木直右衛門の弟/号高城/文久三年四月十三日江戸麻布一ノ橋で清河八郎を斬殺/元治元年四月京都見廻組与頭/慶応三年十一月京都で坂本竜馬らを襲殺したといわれる/明治元年一月伏見で傷/紀州紀三井寺滝本院に葬り、会津若松市武家屋敷に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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写真;会津武家屋敷
家老屋敷 西郷頼母邸
西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた千七百石取りの家柄であった。
江戸時代中期の和様建築の粋を集めた、豪華かつ壮大なこの家老屋敷は、敷地面積二,四百坪、建築面積二八〇坪を誇り、三十八室もの部屋を擁していた。
四脚門や式台玄関、それに冠振りぐしに九曜の紋章を付けた鬼瓦などは、格式の高い西郷家ゆえに許された特権であった。
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by mo20933
| 2014-09-05 21:39
| 会津若松市