大関公之碑
2014.08/17(SUN)
大関公之碑 大田原市黒羽前田・鎮国社
>大関増裕(2012.10/22)
写真;2014,08/17
--------------------
この石碑は、大関肥後守増裕(ひごのかみますひろ)を顕彰するための碑である。石碑の表面は、明治七年(1874)三月、勝海舟撰文・書丹による増裕の一代略記となっており、裏面には、まず増裕の妻待子(まちこ)の追悼歌二首が和歌の師、横山由清によって記され、次いで、三田地山撰文・関思敬書により、建碑の由来が記されている。かつて増裕と共に幕府の軍政改革に尽力した勝海舟のもとを待子が訪れ、「大関公之碑」撰文を泣きながら要請したと云われる。鐫刻(せんこく)は、東京在住の名工廣羣鶴(こうぐんかく)である
石碑表面に陰刻されている内容はおおよそ次のとおり
増裕公は遠州横須賀に西尾忠宝(ただとみ)の末男として生まれ、文久元年(1861)、大関能登守増式(ますつね)の養嗣子となり、家督を受け、従五位下肥後守に叙任した。同二年、幕府の要職に抜擢され、講武所奉行・海陸両軍兵制所主宰となった。翌年病により辞職し、黒羽入りして、藩政改革に尽力した。慶応元年(1865)には海軍奉行に就任し、開成所事務を司り、翌年には幕政に参与することとなった。慶応三年(1867)12月9日死去した。享年31歳。翌年、大関増勤(ますとし)は戊辰戦争で戦功あり、朝廷より1万5千石を下賜された
そして、最後に増裕を讃える海舟の漢詩が付されている
--引用、要約;大田原市Hp(2014.08/17)--
--------------------
写真;鎮国社、2014,08/17
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
大関公之碑 大田原市黒羽前田・鎮国社
>大関増裕(2012.10/22)
写真;2014,08/17
--------------------
この石碑は、大関肥後守増裕(ひごのかみますひろ)を顕彰するための碑である。石碑の表面は、明治七年(1874)三月、勝海舟撰文・書丹による増裕の一代略記となっており、裏面には、まず増裕の妻待子(まちこ)の追悼歌二首が和歌の師、横山由清によって記され、次いで、三田地山撰文・関思敬書により、建碑の由来が記されている。かつて増裕と共に幕府の軍政改革に尽力した勝海舟のもとを待子が訪れ、「大関公之碑」撰文を泣きながら要請したと云われる。鐫刻(せんこく)は、東京在住の名工廣羣鶴(こうぐんかく)である
石碑表面に陰刻されている内容はおおよそ次のとおり
増裕公は遠州横須賀に西尾忠宝(ただとみ)の末男として生まれ、文久元年(1861)、大関能登守増式(ますつね)の養嗣子となり、家督を受け、従五位下肥後守に叙任した。同二年、幕府の要職に抜擢され、講武所奉行・海陸両軍兵制所主宰となった。翌年病により辞職し、黒羽入りして、藩政改革に尽力した。慶応元年(1865)には海軍奉行に就任し、開成所事務を司り、翌年には幕政に参与することとなった。慶応三年(1867)12月9日死去した。享年31歳。翌年、大関増勤(ますとし)は戊辰戦争で戦功あり、朝廷より1万5千石を下賜された
そして、最後に増裕を讃える海舟の漢詩が付されている
--引用、要約;大田原市Hp(2014.08/17)--
--------------------
写真;鎮国社、2014,08/17
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
by mo20933
| 2014-08-17 16:46
| >黒羽