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只見における河井継之助1

2014.08/08(FRI)

八十里越
只見における河井継之助最後の十二日間




 河井継之助記念館に「ご自由にお持ち下さい」とあった資料(全6頁)で、当時の様子が良く解るものであった。これを勝手に引用・要約してupする

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写真;継之助が滞在した目明し清吉の家(展示パネル)・2014.08/06
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慶応 4年(1868)
8月 3日
 八十里越から会津を目指した継之助一行は越後の峠口吉ケ平に着いた。長岡城争奪戦で敵弾を受けた傷は思わしくなく、戸板で運ばれて来て八日がたっていた。継之助はすでに死を覚悟して「会津に行ったとて何のよいことがあるか。おれは行かない。置いて行け」と、吉ケ平を発とうとしなかったと云う
   4日
 継之助をようやく説得し吉ケ平を発ち、八十里越の嶮山に向う。雨でぬかるんだ峠道は会津へ落ちる人々の群れで遅々として進まず、山中に一泊する

 八十里こしぬけ武士の越す峠

 山中で詠んだというこの句は、鞍掛峠を過ぎて越後の山々が目の前に開ける小松横手附近と云われている
 一行が越えた八月四日前後の八十里越は、越後から会津へ逃れる長岡藩士とその家族であふれ、混乱を極めた。会津側の峠の要所要所には、病人・怪我人・婦女子の救護のための基地が置かれ、只見地方の村々からは男十五から六十歳まで残らず動員されていた
   5日
 一行は国境を越えて会津に入る。木ノ根峠からの道は稜線を通り、現在の浅草登山道の山神ノ杉に通じる。会津山内大学隊と井深隊は木ノ根峠関門を中心に警備にあたっており、継之助一行通過の報は直ちに只見に届けられた
 只見では会津代官丹羽族(やから)を中心にして対応に追われた。重傷の継之助の宿をどうするかであったが、民家は全て宿舎にあてられ、街道沿いは人の出入りが激しい。そこで、少し離れた隣村の只見村目明し清吉の家を宛がうこととした
 険しい山道を揺られて着いた継之助は「初めより死ぬことは覚悟していたが、こんなに痛いとは覚悟していなかった」と苦笑いしたと云う
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引用、要約;「町史とっておきの話」--只見における河井継之助最後の十二日間--その1
只見町文化財調査委員 飯塚恒夫

只見における河井継之助2(2014.08/09)



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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

by mo20933 | 2014-08-08 14:32 | 只見町