浅川城(青葉城)跡
2014.07/31(THU)
浅川城(青葉城)跡 石川郡浅川町
写真;【青葉城への入り口周辺】2014.07/27
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以下、現地の案内板から
浅川城(青葉城)跡
文治5年(1189)に陸奥征伐に参加した甲斐源氏の出である浅利(川)義成の孫、知義が大功があったので浅川の地頭職となり、青葉城を築き、1万9千石を領したといわれている。その後、知義の子孫は代々この城にあったが、しだいに石川氏が同族化を強めていった。戦国末期になって佐竹氏が南郷に進出してくるようになり、ようやく活躍するようになる。しかし、その使命は久慈川の川谷を抑える要点である赤館の脇役に過ぎなかった。永禄12年(1569)より天正17年(1589)にかけて数度の合戦が行われた。
この城山は小高い丘(標高407メートルで、台地状の一大岩盤)となっていて傾斜が急であるために、複雑な縄張りや石垣のようなものは必要でなかった。そのために残っているものがない。また、戦闘そのものも激しくなかったこともあり厳重な要塞らしいものはなかった。
城山の中腹にある集落を根宿と呼んでいる。これは根小屋とか内山下に相当するもので、この附近は集落のことを宿と呼んでいる。宿という名称は中通りや久慈川の川谷一帯によく見られる地名である。 --浅川町史より--
浅 川 町
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慶応 4年(1868)
・ 7月16日
↓列藩同盟軍の敗残兵、落城した棚倉城を奪回すべく棚倉の外郭陣地浅川城に集結した..
>戦死霊魂供養塔(2014.07/28)
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
浅川城(青葉城)跡 石川郡浅川町
写真;【青葉城への入り口周辺】2014.07/27
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以下、現地の案内板から
浅川城(青葉城)跡
文治5年(1189)に陸奥征伐に参加した甲斐源氏の出である浅利(川)義成の孫、知義が大功があったので浅川の地頭職となり、青葉城を築き、1万9千石を領したといわれている。その後、知義の子孫は代々この城にあったが、しだいに石川氏が同族化を強めていった。戦国末期になって佐竹氏が南郷に進出してくるようになり、ようやく活躍するようになる。しかし、その使命は久慈川の川谷を抑える要点である赤館の脇役に過ぎなかった。永禄12年(1569)より天正17年(1589)にかけて数度の合戦が行われた。
この城山は小高い丘(標高407メートルで、台地状の一大岩盤)となっていて傾斜が急であるために、複雑な縄張りや石垣のようなものは必要でなかった。そのために残っているものがない。また、戦闘そのものも激しくなかったこともあり厳重な要塞らしいものはなかった。
城山の中腹にある集落を根宿と呼んでいる。これは根小屋とか内山下に相当するもので、この附近は集落のことを宿と呼んでいる。宿という名称は中通りや久慈川の川谷一帯によく見られる地名である。 --浅川町史より--
浅 川 町
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慶応 4年(1868)
・ 7月16日
↓列藩同盟軍の敗残兵、落城した棚倉城を奪回すべく棚倉の外郭陣地浅川城に集結した..
>戦死霊魂供養塔(2014.07/28)
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by mo20933
| 2014-07-31 10:51
| 浅川町