釜子陣屋跡

2014.07/27(SUN)

釜子陣屋跡 現白河市東釜子字本町付近




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写真;2014.07/27
・平成17年(2005)、東村は合併して白河市となる
・白河市釜子地方は寛保元年(1741)より、白河藩主の領地替えに伴い、約百三十年間越後高田藩十五万石の飛び領地であった。陣屋は当初東地区の隣浅川町にあったのだが、釜子に場所を移して領地の支配を続けていた。しかし、明治元年(1868)の戊辰の役で西軍の攻撃を受け、六月二十五日に焼失落陣したのである
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以下、現地の案内板から
かまのこじんやあと
釜子陣屋跡 参萬参阡石
 此の地に、江戸時代後期(文化六年)、越後高田藩の陣屋があった。釜子陣屋と称し、参萬参阡石を領した。領地は西白河郡から岩瀬郡、須賀川市に至る四拾村に及んだ。
 釜子陣屋が此の地に設けられた経緯は次のとおりである。
越後高田藩(榊原家)の石高は拾五萬石であったが、其のうち越後本領内の石高は約六萬石で、残りの九萬石は飛び地の奥州浅川領にあった。其のため藩の財政は貧困を窮めた。榊原家は財政を立て直すために、村替を實施し、本領の石高を増やし奥州領を減らす政策を執った。其の一環として奥州領の陣屋を浅川から釜子に移した。文化六年(一八〇九年)のことであった。
 釜子陣屋は、文化六年から明治維新まで約六拾年間続き其の間、三浦嘉右衛門、吉田茂右衛門、吉田林右衛門弘道、吉田茂右衛門弘道の四人の奉行によって治められてきたが、特に吉田林右衛門弘道は奉行期間が長く、多くの實績を残した。
 陣屋は明治戊辰戰争の際、(最期の奉行吉田茂衛門の時)会津藩の援軍として八木傳五郎が参拾壱人を率いて会津方面に出兵したが、陣屋は西軍(官軍)の攻撃に会う前に奉行自ら火を放ち、建造物や藩士の住宅等一切を焼き拂った。其のため、陣屋に關する書類等は極端に少ない。
 薩長土連合軍の釜子陣屋攻撃の様子は、薩長土軍の自藩への戰況報告書(西陸砲戰秘事記)に詳しく記されている。次は其の抜粋である。
 釜之子進撃
「朝七字薩長土参藩にて順次の囲を取り土薩長と相決し我兵具隊は此藩の先鋒各藩順に進軍相成り本道堤村の橋は賊より落とし候故浅川廻り候處賊銃を討掛け候得共官軍の猛威に恐れ足を留る者も無之夫より百姓を案内として釜之子の壱里前より間道を右に取我隊真先に釜之子に討入銃を巧立追散し賊は川原田の方へ逃げ散り申候當所は越後高田領にて領主は官軍に候得共當所の士共賊に與し候故陣屋へ火を掛け市中に不掛様申置我隊其日の後殿にて棚倉に引揚申候此日敵は逃げ散候迄にて味方怪我人無之」
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以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」から

第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで

慶応 4年(1868)
・ 6月25日
六月二十五日、長・土・大垣・黒羽の勢二百余人棚倉城を出発して釜子の陣屋を襲ったが、陣屋の兵退散して一人も居らぬ。斯くて陣屋は焼かれた

釜子村深沢利平氏編集「新古釜子」に、戊辰釜子の役を記して曰く

・ 6月25日
二十五日長州の田中隊森永彌助、五十嵐庄太郎の率いる軍勢釜子陣屋に入り込み、各所に於て砲火を放ち、陣屋並に民家を焼く、栃本の大崎山の西と東と土手を築きたるは此の時である。又釜子の寺山、深仁井田の刈敷山に土手を築きたるは薩州で、人夫一日の賃金小ニ朱金一枚(今の六銭二厘五毛)の高給なれば一日の中に成功せりという。湯長谷・二本松・仙台の兵に釜子陣屋の兵も加わり阿武隈河の対岸木之内山・瀬知房・川原田・吉岡へ陣取、薩長軍は栃本の天王山、深仁井田の刈敷山より鉄砲を放ち、互に戦いしが僅か三十分にして奥羽軍は退却せり云々
(昭和十二年十月発行の会津史談会誌第十六号に、釜子陣屋の義侠として野出蕉雨氏の談が挙げられている)
曰く 余が白河方面の軍事方を勤めていた時に釜子陣屋から軍用金として、一万両の提供を受けた。五回にも亘り駄馬によりて、長沼の本陣に持参した。是がために白河方面の戦闘の軍資金は、殆ど藩の補給を受くることなくして賄い得た。又五月朔日の戦には釜子陣屋は、立操隊長八木伝次郎が三十一人を率いて会津方に応援した云々

高田藩と北越戊辰戦争(2015.02/08)



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by mo20933 | 2014-07-27 23:10 | 白河市 | Comments(0)