徳川義臣傳(松平太郎)

2014.06/13(FRI)

徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
松平太郎




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明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
 明治十六年 十月三日 出版御届
 同    十一月   出版
 編輯人  東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
 出版人  東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地

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松平太郎
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈 11/31〉(引用)

松平太郎ハ幕府の臣にして文武両道ニ熟達したる英傑なり瓦解ニ臨み諸士の脱走せるを見て大鳥等と深く志免し合せ始め両野二刕(州)の間をほん走して官兵の様を伺ひ或ハ味方の内情を探り又奥羽の諸藩降の後ハ函館に落榎本次下の人々と倶に相謀つて海陸の軍備を整へ以て官兵ニ抗し頗る武名を現ハせり然れ共弾薬尽く竭人心皆労せるを以て降後官ニ徴されて今□芳名の高し

月かけに 晴て隈なく うつ浪ハ 函館山の さほ鹿の声

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松平太郎
天保10年(1839) -明治42年(1909) 5月24日
幕末の幕臣。陸軍奉行並。いわゆる「蝦夷共和国」において副総裁を務めた。名は正親。正七位

経歴

岩津松平家の血を引くとされる幕臣松平九郎左衛門親似(150俵)の子に生まれ、江戸の仏学者村上英俊塾に入門する。幕府では文久年間には奥右筆、慶応3年6月には外国奉行支配組頭となりこれを務めた
慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が勃発すると、2月には歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命され、陸軍総裁・勝海舟の下で旧幕府軍の官軍への反発を抑える役目を負うが、主戦論者だった松平は大鳥圭介や榎本武揚らと図って自らも抗戦に参加。江戸を脱出すると今市にて大鳥と合流、軍資金を届けている。その後会津戦争で敗れると榎本らと共に蝦夷地へ渡った

「蝦夷共和国」副総裁

蝦夷地占領後に行われた「公選入札」(選挙)において榎本に次ぐ得票を得て、箱館政権における副総裁に就任した。主に民政・外交面で活動し、榎本の女房役を務める。榎本の「洋才」に対し、松平の「和魂」と言われ、人望は厚かった。明治2年(1869)5月の新政府軍の総攻撃の際には、奮戦するも敵わず、18日に降伏した

戊辰戦争後

6月7日五稜郭開城。榎本らと東京に護送され、榎本や大鳥らと同様、東京辰ノ口糾問所に禁固。明治5年(1872)に釈放され、明治政府に開拓使御用係・開拓使五等出仕に任ぜられて箱館在勤を命じられたが、翌年には辞した
その後は三潴県(みずまけん)権参事を経てロシアのウラジヴォストークに外務省7等出仕して派遣されたが、ほどなく退職。現地で貿易商、中国で織物業などを営むが、商売人としての才能に欠け、いずれも失敗、流浪の日々を送る
明治42年、豆州賀茂郡の湯本屋で病死。享年71

--引用・要約;「松平太郎」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2014. 4/11(金)13:28--

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by mo20933 | 2014-06-13 19:24 | 徳川義臣傳 | Comments(0)