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白河役陣亡諸士碑(長寿院)

2014.05/26(MON)

捐躬報国(えんきゅうほうこく) 白河市本町北浦30・長寿院




白河役陣亡諸士碑(長寿院)_c0185705_829956.jpg

写真;白河役陣亡諸士碑(2014.05/25)
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--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
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長寿院西軍墓畔にある巨碑で明治二十五年の建設である。島津・毛利両公を初め此の役に参加せる板垣退助・河村純義・大山巌等の発起によった建碑である。碑銘は
 白河役陣亡諸士碑
 捐躬報国 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額
戊辰中興之元年春、六師東征首収江戸城。徳川氏恭順謝罪。而余賊尚拠東叡山不降、乃撃殲之。先是分軍転戦両総常野之間、進徇奥羽。奥羽諸藩合従方命、会津仙台実為之盟主。幕府逋竄之徒又往投之、共抗王師於白河城。城当奥羽咽吭、地勢険要、賊極力拒守。官軍進戦不利、退次芦野。五月朔、縦兵自三道往襲之。鋒
甚鋭、斃会津仙台二本松棚倉等兵六百八十余人。賊不能支棄城遁。官軍乃入為根拠、蓄鋭議進取。賊察我
寡兵、大挙来囲、衆数千人、而官軍不過六百余人。備兵白坂駅、使賊勿断我軍後。爾来砲戦累昼夜大小数十
合。毎戦輙有利。既而官軍日益至、賊勢日愈□、退保其城砦。六月官軍別隊、由海路達平潟、攻平城抜之、将以応白河軍也。二十四日発薩長土大垣佐土原館林黒羽七藩兵千余人、撃賊於関山、乘勢下棚倉城。於是海
陸諸軍悉会二本松城下、倶攻抜其城。乃分為二軍、一由天狗角觝山、一由猿嵓竝保成本道。而三別遣一軍由三度己屋、進共討会津、竟能得奏蕩平之功焉。是役也前後陣亡甚多、而瘞屍白河長寿院者、凡一百十五人。墓上惟刻其姓名、未及録其事跡。於是七藩旧主及当時関其役者、慨然会財以圖其不朽、徴文於余。鳴呼戊辰之変、天下治乱之所判、而勤王諸藩率先踢厲、諸士亦皆捐躬報国以贊襄鴻業。此雖国家隆運之所致、而其烈亦可謂卓偉非常哉。今二十五年矣。海内□安、庶民謳歌、追懐当時、恍如隔世。而百年之後、物換星移、艱難遺跡或将帰乎湮滅、是此挙之所以不可已也。銘曰
 有蔚佳城 白河之原 煌々烈士 爰留其魂 遺勲銘石 山岳倶存
 明治二十五年壬辰十一月
         従四位勲四等文学博士重野安繹撰
         辨理公使従四位子爵 秋元興朝書
この巨碑の竣工して除幕式の行はるゝ時、陸軍の軍楽隊も来り、大山大将等戊辰の役に関係あるの士参列して頗る盛大のもんであったと本町の佐久間平三郎氏は語る
長寿院に明治三十三年、三十三回忌の霊祭が催された時、海軍中将伯爵河村純義、(戦争当時の河村与十郎)文部大臣樺山資紀等が臨席し、二氏亦左記の書を長寿院に遺してある

 徳川氏の流の末は乱るゝ世となりて、其政を朝廷に還し奉り御代一統になり、大義名分を正しくせしに、豈図らんや、再び大軍を起し都に入らんとせしが、鳥羽伏見の戦の初、大内山に錦旗の御旗翻し征討の命を下し給ひ、八幡・山崎より難波の城も追攘ひ、東海・東山の両道に王師を向はしめ、終に江戸城をあけ渡せしといへども、残党国々に依り王師に抗し、この白河を要し大戦に忠勤を抽(ぬきん)て、国の為に斃れし人々を長寿院に葬り、其戦功も尠からず、終に奥羽鎮定し、朝廷より厚く祭祀を賜はり、実に慶応四年五月朔日、此の白川を陥落せし当日にて三十三回忌の祭典を催し、同従軍者にして今に生存せる有志ども交(こもご)も集まりて、なき人々の忠魂を慰めんと、旧藩主初夫々よりも祭典料を捧げられ、海山の種々を供へなき人々の御霊を慰めまゐらせんとなむ
 明治三十三年五月二十八日
         海軍中将正二位勲一等伯爵河村純義
 国のため捨てしその名は白川の清き流に名をとゞむらん
樺山文部大臣は慰忠魂の三字を大書し、明治三十三年五月二十八日、樺山と書かれてある。何れも長寿院に現存
長寿院には明治の末期まで毛利家より年々供養料金若于を送られたが、今はその事が絶えている
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--以下、現地の案内板から--
きがくさんちょうじゅいん
亀岳山長寿院(曹洞宗)
 長寿院は、もと石川郡小高村(現在の玉川村)に建立されたが、江戸中期の白河藩主松平大和守家の菩提寺孝顕寺の住職がこの地に再興したと伝える。孝顕寺は松平家の転封で姫路に移ったが、長寿院には孝顕寺の僧一人を留め、白河に葬られた藩主の霊廟を守るための寺としたと伝える。正徳元年(1711)巻穏和尚開山。
     本町復起会

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写真;長寿院(2014.05/25)
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--以下、現地の案内板から--
慶応戊辰官軍戦死肖像
 長寿院には、戊辰戦争白河口の戦いなどで戦死した新政府軍各藩の墓地が営まれている。この肖像は、明治期に白河町の絵師荷翁(鵜沼舒嘯)によって描かれてたもので、各藩ごとに戦死者と絵姿が丁寧に描かれている。
墓所入り口両側には、明治九年(一八七六)の明治天皇の東北巡幸に随行した岩倉具視、大久保利通により奉納された燈篭がある。
山門を入って右手壇上には「白河役陣亡諸士碑」が建立されている。碑の篆額「捐躬報国」は有栖川宮熾仁親王、撰文は重野安繹、書は秋元興朝による。碑陰には、白河口戦線へ出兵した官軍諸藩の旧藩主家=毛利・島津・山内氏や、明治政府の錚々たる高位顕官=大山巌・川村純義・板垣退助ら二二名の氏名や爵位が発起人として列刻されている。
     平成二三年度
     県南地方観光推進事業「"桜"プロジェクト」
     財団法人白河観光物産協会
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慶応戊辰殉国者墳墓(西軍)(2016.04/09)



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by mo20933 | 2014-05-26 08:03 | 白河市