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檜枝岐口留御番所

2014.05/16(FRI)

檜枝岐口留御番所 檜枝岐




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写真;檜枝岐口留御番所跡付近・2014.05/16
※ ここは鎮守神社の参道であり、この奥に「檜枝岐(歌舞伎)の舞台」がある
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以前、現地にあった案内板から
檜枝岐口留御番所

 檜枝岐は、昔は"南山御蔵入り"といって幕府の直轄であった。それはこのあたりが漆ロウソクをつくるロウの主産地であり、また豊富な材木の生産地でもあったためである。そのため幕府の出先きとして番所が設けられこれを"檜枝岐口留御番所"といった。南山御蔵入りの西の口の取り締りは女、ロウ、ウルシ、飢饉の年には食糧の調べも厳重であった。戊辰戦争では人改めも厳重で関所の役目も果した。
     檜枝岐村
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会津郡/長江庄檜枝岐村「耕古録」 星知次編

一〇 口留御番所

古文書に『檜枝岐村御番所の儀は、当郷の先封河原田家時代、私先祖星越後と申す者相守り、夫より御先代加藤様御代に至るも御番所相守り、御当家様御代に相成、寛永元年郡奉行、関藤右ヱ門様御支配の節、九代以前の祖星縫殿之助へ口留番仰付られ、御給米四石下し置かれ御番所御建札、御条目、御口口御渡し置かれ、苗字帯刀にて御番所相守、御料所、御預所と数度御支配替御座候ても、変り無く相務め、有難き仕合に存じ奉り候、この下番人の儀は、村中村役にて順番にまかり出 相務め申来り候』
とあり、河原田氏時代すでに番所が存在した。中でも星備中は天正年間に住し、その柵は東西二十九間、南北四十一間あったと伝える。当時の柵の詳細は不明だが、寛永年中に設けられた御番所は大体次のようなものであった
 往来に、高さ一丈、横二間の木戸門を設け、その左右に柵木六十本を立てて通行出来ないようにし、木戸門そばには、長さ二間、横九尺の下番所があり、ここには鉄砲、さすまた、つく棒などを備え、役所より通達された掟、条目などの御札が掲げられて厳めしく、下番所の番人は往来を見張って居た
 番所の目的は、八品留物と言われた、女、巣たか、蠟、駒、漆、熊皮、紙、鉛の領外への流失を防ぐためで、其外留物は其都度役所より通達された
 留物の通過については、村民全体が其の監視の役目を負い、名主である番人は、その総責任者であった
 沼田街道は嶮岨な山道ではあったが、古来より会津と上州をつなぐ重要な通路であり、物資は会津よりの米、酒などが主で、すでに元禄年間以前より駄馬にて運搬され一日に数駄の物資が動いている。其の為尾瀬沼の辺に交易小屋が在り、又片品村越本にも、このための問屋まで在ったと云う
 又人々の往来も相当あり、戦国時代末期あたりにも、会津藩主と関連していろいろな人が通っていたようである
 しかし当番所にては特に問題も起きず、口留番所の役目も変り、幕末には留物の取締りというよりも、治安を守る役目に変り、このため役所よりの出役が常駐していた事もあったが、こうした事も明治維新後は無くなり、番所の建物も取り壊されたのである
--会津郡/長江庄檜枝岐村「耕古録」昭和53年10月・星知次編・檜枝岐村発行--
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檜枝岐口留御番所_c0185705_23154883.jpg

写真;沼田街道(檜枝岐、六地蔵)・2014.05/16



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