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古関蹟の碑

2014.04/18(FRI)

古関蹟の碑 白河の関跡




古関蹟の碑_c0185705_1637640.jpg

写真;2014.04/17
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以下、現地の案内板から

こかんせき
古関蹟の碑

 白河藩主松平定信(楽翁)が寛政十二年(一八〇〇)八月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。
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 …また780年(宝亀11年)12月22日(旧暦)には陸奥鎮守府副将軍の百済王俊哲が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。こうしたことから、ヤマトの軍事的要衝としての白河関の機能は平安中期には解消したものと考えられている。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。 関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた
 1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた
 1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年(昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された
--Wikipedia「白河の関」2014.04/18--
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白河関跡の発掘調査
以下、現地の案内板から(一部)

白河関跡の発掘調査

 「白河関(関の森遺跡)」の発掘調査は、この地が古代の白河関跡であることを実証することを目的として実施されたものです。
 昭和34年から5ヶ年にわたり、遺跡を大きくA・B・C地区に分けて行われた調査では、各地点から多くの遺構・遺物の存在が明らかとなりました。
 A地区…空堀と土塁に囲まれた平坦地を中心に調査が行われ、掘立柱建物跡、奈良・平安時代頃の土器が出土しました。
 B地区…白河神社の社殿裏側の平坦地を中心に調査が行われ、竪穴住居跡、鍛冶跡、柵列が確認されました。遺物は、墨書土器や鉄製品が多く発見されています。
 C地区…遺跡の北側斜面部を中心に調査が行われ、柵列跡、門跡の可能性が考えられる柱穴が確認されています。
 この5ヶ年にわたる調査において発見された遺構・遺物の特徴や遺跡の立地条件などを総合的に考察した結果、この地が古代関跡の条件にかなうことが明らかにされ、昭和41年に「白河関跡」として、国の史跡に指定されました。



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by mo20933 | 2014-04-18 15:11 | 白河市