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結城宗広の墓

2014.04/05(SAT)

結城宗広の墓 白河市・関川寺




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以下、現地の案内板から

ゆうき むねひろ
結城宗広の墓

 結城宗広は、白河結城氏の祖、祐広の子で、今から約六八〇年前の南北朝時代の初期に鎌倉幕府討伐などに活躍した武将です。
 元弘三年(一三三三)、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐の命に従って鎌倉を攻め、幕府を滅亡させ、建武の新政では陸奥国支配の重要な役割を担いました。
 その後、宗広は後醍醐天皇と対立した足利尊氏軍を京都などで破り、北朝(尊氏側)の成立後も陸奥国の南朝勢力(後醍醐天皇側)の中心として活躍しましたが、京都から帰国する際、伊勢国(三重県)で病没しました。享年七十余歳といわれています。
 関川寺は結城家の菩提寺で、宗広の開基と伝えられています。ここはかって結城氏の館だったと考えられる場所で、土塁や堀が遺されています。

     白河市観光協会
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以下、現地の案内板から

かんせんじ
関川寺館跡(城跡)

 関川寺は、曹洞宗寺院の古刹で、中世に白河を本拠とした武家白河結城氏の菩提寺として、古くは市内関川窪に所在したが、江戸時代初期に当地に移転した。
 当寺院の境内地には、中世の城郭遺構である土塁と堀が遺存している。館跡の形態については、文化五年(一八〇八)の「白河城下絵図」の記載から、谷津田川の河岸段丘を利用した、東西に長い方形居館であったと判断される。規模については、絵図からの推定値で東西二二〇メートル、南北一八〇メートルほどと推定される。
 館跡の年代や性格については、発掘調査等が行われていないことから具体的にはできないが、遺構形態や規模から、その始まりは鎌倉時代後期の白河結城氏の居館であった可能性が高い。
 また、残存する土塁が際立って高いことから、戦国時代の十六世紀後半頃にも使用された可能性が考えられる。白河の中世史を解明する上で重要な城郭遺構である。
 なお、境内には南北朝時代の武将として活躍した結城宗広の墓所も所在している。

     寄贈 白河ユネスコ協会

※ 白河城下絵図 文化5年(1808)があったが省略した



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by mo20933 | 2014-04-05 22:19 | 白河市