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神指城跡

2013.09/13(FRI)

神指城跡 会津若松市神指町
こうざしじょう




神指城跡_c0185705_20323849.jpg

※ 写真;二ノ丸土塁北東隅、高瀬の大けやき(2013.09/11)
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以下、現地の案内板から

神指城跡

 神指城は、蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3年(1598)に会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼続に命じて築城させた城です。
 慶長5年(1600)3月から工事が開始され、同年6月には一応形が整ったと言われています。縄張りは、本丸と二ノ丸から成る輪郭式の平城で、それぞれ濠と土塁が取り囲む構造となっています。このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。
 面積は、本丸だけでも約56,000㎡、二ノ丸を含む全域では約500,000㎡もあり、若松城を遥かに凌ぐ規模の壮大な城でした。この土地は二ノ丸土塁の北東隅にあたります。
 この地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城地として適していたためと考えられます。
 しかし、築城半ばであった神指城も、徳川家康による会津征伐の情報を得るなどの情勢の変化により工事は中断されます。そして、関が原の合戦後の慶長6年(1601)には上杉家は米沢30万石に転封となり、神指城は完成を見ないまま廃城となりました。
 このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。
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神指城跡_c0185705_12105255.jpg

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慶応 4年(1868)
・ 9月
 新選組斉藤一(山口次郎)率いる十九名が二ノ丸如来堂附近に居たとき、若松に進攻した新政府軍に取り囲まれて壮絶な戦闘となった。この戦闘で新選組兵士ら会津勢十三名が戦死し、斉藤一ら六名は脱出したという
     *
※ 如来堂;二ノ丸土塁西南隅
※ 明治と改元するのは 9月 8日からだが 1月に遡って明治とするとあり..
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以下、本丸跡にあった説明チラシから

神指城本丸址(輪郭形の平城)
総面積 約166,386坪(55ヘクタール)

□ 二ノ丸土塁
   東西   五丁二十間(約 581m) 南北  四丁五十間(約 526m)[諸説あり]
   塁址(幅)    九丈(約 27m) 高さ   五丈五尺(約18.15m)
 外壕
   幅(広さ)   三十間(約 54m) 水深   一丈以上(約3m以上)
城門 石垣 四方に虎口を築き橋で渡る。外壕の水は応湖川及び大川(阿賀川)より引き込む。高瀬の大木(欅・昭和16年・国指定天然記念物)樹齢は推定で九百年~千年と見られる。直江兼続はこの欅と北極星で基点を決め、提灯測量で城の縄張り(設計)をしたと伝えられる。

□ 本丸の石垣
   東西   二丁四十間(約 290m) 南北  二丁五十間(約 308m)[諸説あり]
   塁址(幅)    十間(約 18m) 高さ   六丈五尺(約 19.5m)
 内濠
   幅(広さ)  三十二間(約57.6m) 水深   一丈以上(約3m以上)
城門 石垣 東・西・北に門と虎口を築き橋で渡る。内壕の水は主に大川(阿賀川)より引き込む。兼続の構想では、西口門濠から高瀬舟で大川を塩川の川湊に下り、帆掛船で阿賀野川を下り日本海に出る事が出来る。政治・経済を図り百二十万石の城下町を築き、諸国との交易を考えたという。

□ 築城(省略)
□ 廃城(省略)
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