一ノ堰の戦い

2013.09/11(WED)

一ノ堰の戦い 会津若松市門田町一ノ堰
光明寺の墓石




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平成25年(2013)
・ 9月11日
 南会津町、糸沢の「まんまパン」で、特に"ずんだあんパン"を買おうと出掛けたのだが、何故だか閉まっていて買えず。止む無くそのまま北上して会津若松一ノ堰あたりを目指す
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以下、現地の案内板から

戊辰戦争一ノ堰の戦いとは

 戊辰戦争終結直前である慶応4年9月中旬、ここ一ノ堰を中心として、小山田・青木・御山・堤沢・面川・雨屋・新村・中野・井出・徳久・羽黒等当時の門田村全域が戦場と化していた
 旧暦9月15日と9月17日の2回にわたる激戦がこの一ノ堰の地で繰り広げられ、多くの戦死者を出すことになる
 参加隊
 ・西軍 前戦い(9/15);薩摩外城二番隊、七番隊、佐土原□隊、長州兵、報国隊、小倉隊、宇都宮兵等
     後戦い(9/17);薩摩兵、佐土原兵、米沢兵、安芸兵、新発田兵

 ・東軍(会津軍)前戦い(9/15);後戦い(9/17);
     朱雀士中四番隊(町野隊)、朱雀寄合二番隊(西郷隊)、清龍士中三番隊(木本隊)、玄武士中隊(伊与田隊)、同寄合望月隊
     白虎寄合一番隊(原隊)、外結義隊の諸隊が主力部隊

 二回にわたる激戦で、東西両軍に多くの犠牲者を出したが、東軍(会津軍)の兵士の遺体は、そのまま放置されていた。これは、賊軍会津の兵士の遺体を埋葬することを禁じたためである。その後、現在の供養碑は、明治2年になってから、戦死した会津兵の遺体を収集し、光明寺境内に供養されたものである
 一ノ堰の戦いで戦死した会津兵は、67人とされているが、ここ一ノ堰に埋葬されたのは48人である。残りの19人の埋葬先は未だに不明である


一ノ堰の戦い戦死者墓碑

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〈会津藩家老一之瀬要人墓〉
 会津藩家老で千三百石取/戊辰戦争では越後方面の総督となり、各地に転戦し、徳久村の戦いで傷を負い、22日に死亡/会津藩家老では唯一の戦死者/享年37歳

・一之瀬要人  千百五十石、家老/越後方面総督として転戦/明治元年九月十五日会津一ノ堰で傷、二十二日桑原村病院で死/三十七歳/一関・光明寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--


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〈山本権八墓〉
 玄武隊に参加しており、山本覚馬、八重子の父/9月17日一ノ堰にて戦死/享年61歳

・山本権八  覚馬(のち京都府会議長)の父/玄武士中伊与田隊/明治元年九月十七日会津一ノ堰で戦死/六十一歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--


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〈会津藩士玄武隊有賀九左衛門墓〉
 玄武隊に参加、9月17日一ノ堰にて戦死/享年56歳

・有賀九左衛門 九次郎父/百五十石/玄武士中伊与田隊/明治元年九月十七日会津一ノ堰で戦死/五十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--


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〈会津藩士田原重義墓〉
 与五左衛門?/玄武隊伊与田隊に参加、田原四郎父/9月17日一ノ堰の戦いで戦死/享年44歳

・田原与五左衛門 与五右衛門とも/直之助父/百石/玄武士中伊与田隊/明治元年九月十七日会津一ノ堰で戦死/四十四歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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※ 写真;2013.09/11



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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by mo20933 | 2013-09-11 22:43 | 会津若松市 | Comments(0)