西國供養塔
2013.08/04(SUN)
西國供養塔 会津西街道
高原新田宿
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高原新田宿
嘉永 5年(1852)
・長州藩士吉田松陰は22歳のとき、脱藩して宮部鼎蔵らと東北旅行に出て帰路途中ここ高原新田宿に宿泊した(東北遊日記)
※ 吉田松陰(よしだしょういん)
長州藩士。1830-1859
※ 宮部鼎蔵(みやべていぞう)
熊本藩士。元治元年(1864)六月、池田屋で会合中に新選組の襲撃を受け、結果自刃した。享年45才
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西國供養塔と(道標)
※ この西国供養塔は宿中程にあって右には道標があり「従是 右ハ阿らゆみち 左ハあいづ□(み)ち」と刻まれている
阿らゆみち=新湯道
※ 新田と名がつくが、ここは標高1200m余りで水田は無い
※ 万治二年(1659)の地震で元湯(現那須塩原市湯本塩原)がほとんど壊滅した。残ったうちの六戸が古高原に移り、延宝三年(1675)には塩湯山湯泉寺も古高原に移った〈文久三年(1863)以後廃寺〉。これらのことが「高原新田宿」成り立ちの起源であるようだ。また、湯本山円谷寺は新湯に移ったが戊辰戦争によって焼失、廃寺となった
--塩原町史--
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西國供養塔 会津西街道
高原新田宿
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高原新田宿
嘉永 5年(1852)
・長州藩士吉田松陰は22歳のとき、脱藩して宮部鼎蔵らと東北旅行に出て帰路途中ここ高原新田宿に宿泊した(東北遊日記)
※ 吉田松陰(よしだしょういん)
長州藩士。1830-1859
※ 宮部鼎蔵(みやべていぞう)
熊本藩士。元治元年(1864)六月、池田屋で会合中に新選組の襲撃を受け、結果自刃した。享年45才
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西國供養塔と(道標)
※ この西国供養塔は宿中程にあって右には道標があり「従是 右ハ阿らゆみち 左ハあいづ□(み)ち」と刻まれている
阿らゆみち=新湯道
※ 新田と名がつくが、ここは標高1200m余りで水田は無い
※ 万治二年(1659)の地震で元湯(現那須塩原市湯本塩原)がほとんど壊滅した。残ったうちの六戸が古高原に移り、延宝三年(1675)には塩湯山湯泉寺も古高原に移った〈文久三年(1863)以後廃寺〉。これらのことが「高原新田宿」成り立ちの起源であるようだ。また、湯本山円谷寺は新湯に移ったが戊辰戦争によって焼失、廃寺となった
--塩原町史--
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by mo20933
| 2013-08-04 09:29
| >藤原