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下野街道の概要

2013.07/29(MON)

下野街道(会津西街道)
下郷町中山附近




下野街道の概要_c0185705_1545241.jpg

写真;中山附近に残る下野街道(2013.07/26)
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以下、現地の案内板から

下野街道

 下野街道は、会津藩が隣国へ通じる際の本道五筋(下野街道・米沢街道・越後街道・二本松街道・白河街道)として、幕府に報告した中の一筋で、会津若松城下から日光神領今市宿までの総延長32里(約132キロメートル)、道幅二間(約3.8メートル)の街道です。
 この街道は、会津から江戸への最短の道として、会津藩をはじめ近隣諸国藩主が参勤交代に利用し、あるいは会津藩の年間数万俵にも及ぶ廻米(かいまい)の輸送路として、政治的・経済的に重要な街道でした。
 明治17年(1884)大川沿いに現在の国道が開通します。山間を通る下野街道は、一部県道や林道となって利用されますが、峠を越える山道や地形上急峻な場所はそのまま残され、道型がかろうじてわかるまでに荒廃した道となっていました。
 平成7年度から実施された「歴史の道整備活用推進事業」の調査により、街道の所々には石畳や一里塚、あるいは峠の茶屋の遺構などが確認され、このたび、これらの整備を図ることができました。
 遠い時代に繋がるこの道を、往時の人々はどんな思いで歩いたのでしょうか。江戸時代の鼓動を確かめる上でも、ゆっくりとこの歴史の道に足を踏み入れてはいかがでしょう。

     平成11年 3月
     文化庁・下郷町
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以下、「長寿の湧水」にあった案内板から

下野街道の概要

 下野街道という呼び名は、会津を中心にその街道の行き先の地名をつけた呼び方である。越後街道・米沢街道・二本松街道・白河街道などにならった呼び方である。会津藩では、古くは関山街道・南通り・南山通り・下野路などと呼んでいる。一方関東側からすると会津街道・会津西街道などと呼ばれる。近年では分かりやすい点から会津へ通じる西側の通り、会津西街道がよく使われている。
 下野街道は、若松城下から下野(栃木県)の今市に至る道筋である。若松大町を起点に、福永(古くは本郷)~関山~大内~倉谷~楢原~田島~川島~糸沢~横川~三依~五十里~高原~藤原~大原~高徳~大桑~今市に至る三二里(約一二八km)の道のりである。さらに越後から江戸へ向かう場合、越後街道を坂下で分かれ、高田~市野~大内で下野街道に合流する。この道筋も含めて下野街道と呼んでいる。
 天正一八年(一五九〇)四月十五日伊達正宗は、小田原参陣のため下野街道を通り小田原へ向った。しかし、北関東の不穏な情勢を知り大内まで来て引き返している。八月九日奥羽仕置のため黒川(若松)入りした豊臣秀吉は、四日間の滞在後、下野街道を通り帰京している。このことからも、街道としての道筋は早くから整備されていたと考える。
 若松と今市を結ぶ下野街道の宿駅は、中世以来、軍馬の通行や藩主の通行にしばしば利用され、ある程度整備がなされていたと考えられている。しかし本格的に整備が進められるのは、寛永二〇年(一六四三)保科正之の入部からである。
 下野街道の宿駅整備は、一七世紀初めから中ごろにかけて急速に整備される。その理由に次の三点を挙げることができる。第一に参勤交代の制度化。第二に日光東照宮の造営。第三に江戸廻米の実施である。このうち日光東照宮は 藩政時代を通じ下野街道と大きな関わりを持つことになる。日光は徳川幕府の聖地となり、下野街道は北の入り口となるからである。こうした物の流れや人馬の移動が、宿駅整備を大きく進める要因となる。

     倉水区
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下野街道の概要_c0185705_15455328.jpg




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by mo20933 | 2013-07-29 19:25 | 下郷町