美濃屋
2013.07/26(FRI)
日本奥地紀行 イザベラ・バード
明治11年(1878) 6月27日、28日(大内)
平成25年(2013)
・ 7月26日
イザベラが泊まった「美濃屋」さんの写真を撮ってきた
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大内宿「美濃屋」
※ 写真;大内村肝煎阿部大五郎の大内宿「美濃屋」(2013.07/26)
「美濃屋」は、イザベラが東北での止宿先では、唯一当時に近い形で現存するものだといわれる
※ 「美濃屋」さんの縁先に
『NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場してしている会津藩九代藩主松平容保侯も、明治になって日光東照宮の宮司時代に当家に立ち寄っています』
と書いた張り紙があった(2013.07/26)
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以下、現地の案内板から
重要伝統的建造物群保存地区 / 下郷町大内宿伝統的建造物群保存地区
面 積 約一一・三ヘクタール
国選定 昭和五十六年四月十八日
大内宿は会津若松と日光・今市を結ぶ南山通り(会津西街道)の宿駅の一つである。
この南山通りは、会津藩が江戸時代初期に会津と江戸を結ぶ幹線道路の一つとして整備したもので、廻米などの物資の輸送で栄え、会津藩主も参勤交代の際にこの道を利用するなど重要な街道であった。
大内宿が宿駅として整えられたのは十七世紀中頃と推定され、本陣・脇本陣がおかれた。
保存区域は旧街道に沿った旧宿場を中心とする南北約五〇〇メートル、東西約二〇〇メートルの範囲である。本地区の町並の特徴は寄棟造の建物が道路と直角に整然と並べられていることである。主屋は道路から空地を設けて敷地の北側に後退して建ち、南は余地をおいて奥の土間入口への通路となっており、倉や納屋は主屋の奥に建つ。
主屋の多くは江戸時代後期から明治にかけて建築されたもので、道路側に半間幅の縁をつけ、その奥の二室を座敷としている。
道路の中央には広い溝が設けられ、宿場の用水路として利用されたが、明治十九年になって埋めたてられ道路の両側に側溝が掘られ洗い場を設けるなどの変遷があった。
この町並みは、会津及びその周辺地域にみられたこの地方の宿場形態の典型的なもので、その多くが失われた今日もなお往時の姿をよく残している。
また、周囲の社寺や自然環境とも一体となって優れた歴史的景観を今に伝えている。
文 部 省
福 島 県
下 郷 町
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>古戦場と大内峠(2013.07/26)
>完訳日本奥地紀行1(2013.06/15)
>日光からの出発(2013.07/02)
>小百(2013.07/02)
>小佐越(2013.07/03)
>鬼怒川(2013.07/04)
>藤原宿(2013.07/05)
>馬の草鞋(2013.07/08)
>夢のような美しさ(2013.07/08)
>中三依(2013.07/08)
>貧乏人の「子沢山」(2013.07/12)
>「山王峠」(2013.07/12)
>糸沢←4.4k→川島(2013.07/12)
>田島(2013.07/16)
>豊成→栄富(2013.07/16)
>大内(2013.07/17)
>美濃屋(2013.07/26)
>手に負えない早駆け(2013.07/30)
>若松平野[盆地](22013.08/08)
>峯越連絡林道(2013.08/09)
>高田(2013.08/11)
>マラリアがはやる所(2013.08/12)
>[舟橋](2013.08/14)
>片門(かたかど)(2013.08/20)
>束松峠(2013.11/03)
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
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大内宿「美濃屋」
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※ 「美濃屋」さんの縁先に
『NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場してしている会津藩九代藩主松平容保侯も、明治になって日光東照宮の宮司時代に当家に立ち寄っています』
と書いた張り紙があった(2013.07/26)
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以下、現地の案内板から
重要伝統的建造物群保存地区 / 下郷町大内宿伝統的建造物群保存地区
面 積 約一一・三ヘクタール
国選定 昭和五十六年四月十八日
大内宿は会津若松と日光・今市を結ぶ南山通り(会津西街道)の宿駅の一つである。
この南山通りは、会津藩が江戸時代初期に会津と江戸を結ぶ幹線道路の一つとして整備したもので、廻米などの物資の輸送で栄え、会津藩主も参勤交代の際にこの道を利用するなど重要な街道であった。
大内宿が宿駅として整えられたのは十七世紀中頃と推定され、本陣・脇本陣がおかれた。
保存区域は旧街道に沿った旧宿場を中心とする南北約五〇〇メートル、東西約二〇〇メートルの範囲である。本地区の町並の特徴は寄棟造の建物が道路と直角に整然と並べられていることである。主屋は道路から空地を設けて敷地の北側に後退して建ち、南は余地をおいて奥の土間入口への通路となっており、倉や納屋は主屋の奥に建つ。
主屋の多くは江戸時代後期から明治にかけて建築されたもので、道路側に半間幅の縁をつけ、その奥の二室を座敷としている。
道路の中央には広い溝が設けられ、宿場の用水路として利用されたが、明治十九年になって埋めたてられ道路の両側に側溝が掘られ洗い場を設けるなどの変遷があった。
この町並みは、会津及びその周辺地域にみられたこの地方の宿場形態の典型的なもので、その多くが失われた今日もなお往時の姿をよく残している。
また、周囲の社寺や自然環境とも一体となって優れた歴史的景観を今に伝えている。
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by mo20933
| 2013-07-26 22:37
| 日本奥地紀行