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田中愿蔵刑場跡

2013.02/04(MON)

田中愿蔵刑場跡 福島県東白川郡塙町・道の駅「はなわ」
西方約四十間之所




田中愿蔵の墓(2015.03/18)
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平成25年(2013)
・ 2月 4日
 白河を素通りし、棚倉では棚倉城跡を見た後八槻都都古別神社にお参りして南下。塙町の「田中愿蔵刑場跡」の慰霊碑を見て来た。「刑場跡」慰霊碑は後に道の駅が建設された際にここに移設されたのだそうだが、慰霊碑の脇には川原が広がり久慈川が流れる。その向こうには八溝山系の山並みが見える。皮肉だが、何とも長閑な田園風景であった

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以下、現地の案内板から

 水戸天狗党田中愿蔵は、水戸近郊の戦いに敗れ、八溝山に拠るも再起図れず、解散し、町内の真名畑にて捕縛され、この川原に於いて斬首される。
 元治元年(一八六四年)十月十六日遺体は安楽寺に埋葬される。翌年慶応元年、ゆかりの者により供養の碑が建てられた。昭和四年金澤春友氏により「田中愿蔵刑場の跡」の碑が建立される。
 現在この地に「道の駅」が建設されるにあたり、移動され再建されたものである。(二〇〇四年三月)
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「田中愿蔵刑場跡」慰霊碑裏面
  田中愿蔵絶命之辭

霜に染む樹々の稍の錦よ
  いと珍らしき谷の松が枝


  元治元年十月十六日斬首年廿有一
  昭和四年□月□□

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◇8◇ 天狗党の跡 志半ば勤王の志士
 ショベルカーの鋼鉄のアームが天空を舞い、赤茶けた土砂を右から左へ器用に運ぶ。福島県塙町の市街地のはずれ、久慈川と川上川の合流地点で河原の埋め立て工事が急ピッチで進められている
 この河原は、幕末の動乱期に尊皇攘夷を唱えて決起した水戸天狗(てんぐ)党の受難の地。水戸藩士田中愿蔵は一八六四(元治元)年、ここで処刑され、二十歳の若さで山河のつゆと消えた
 田中愿蔵は一八四四年、久慈郡東連地村(現水府村)で生まれた。藩制時代後期に建てられた郷校の一つ、野口時雍館の館長を務め、一八六四年三月、水戸学の指導者藤田東湖の子、藤田小四郎らとともに筑波山で挙兵し、天狗党幹部になった
 しかし、愿蔵は倒幕に踏み切れない小四郎と間もなく対立、天狗党を割って独自の隊をつくり、各地を転戦した。追ってのやいばを逃れ、最後は八溝山にこもったが、同年十月、食糧も尽き果て隊を解散。時代の魁(さきがけ)になろうとした勤王の志士たちは飢えと寒さの中、山を下り、志半ばで刑死した
 愿蔵は塙の代官所で調べを受けた後、久慈川の河原で処刑され、久慈川をはさんで八溝山と向き合う羽黒山の安楽寺に葬られた。棚倉町大梅でも二十四人が処刑され、墓碑のある一帯は天狗平と呼ばれている
 愿蔵一派は小四郎らと分かれた後、放火や略奪を重ね、人々に恐れられた。愿蔵の悪名はいや応なしに広まり、明治以降も「悪党」のイメージが定着していた
 それを変えたのは、郷土史家で塙町長を務めた金沢春友さん。孫の卓壽さん(66)によると、一八八四(明治十七)年生まれの春友さんは代官所に勤めていた祖父から話を聞き、愿蔵の生涯に関心を持った
 愿蔵が悪事を働いたとされる地域に出掛け、一軒一軒訪ねて古老の証言を集めた。戦前の「いはらき新聞」(現茨城新聞)にも論文を発表、地道な調査で悪役像を一変させた。大仏次郎とも交流があり、大仏は春友さんがまとめた資料を基に「愿蔵火事」などの小説を書いた。「愿蔵火事」は松竹が映画化、一九三二(昭和七)年に封切りになった
 「うちのじいさんが言うには愿蔵は頭も切れ、眉目(びもく)秀麗。気品のある立派な男だったようだ」と卓壽さんは語る
 愿蔵が処刑された河原には一八六五(慶応元)年、処刑を担当した役人の手で慰霊碑が建てられた。一九二九(昭和四)年には「田中愿蔵刑場跡」と記した慰霊碑が住民らの手で建立され、石碑の裏には辞世の句が刻まれた
 河原では今、着々と埋め立て工事が進み、造成後の宅地には「道の駅」が建設される。二つの慰霊碑は工事に伴い、近くの公民館の駐車場に移されている
 塙町農林課によると、工事が終われば慰霊碑は道の駅の敷地内に戻るという。しかし、アスファルトの路面には、残念ながら昔日の面影はない
--引用;2002年 3月30日(土)茨城新聞--



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by mo20933 | 2013-02-04 22:11 | 塙町