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第十章 西軍白河に滞在

2013.01/24(THU)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第十章 西軍白河に滞在

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慶応 4年(1868)
・5月 1日~ 7月
五月朔日の大戦に西軍は全く白河城を回復し、白河市中に入る(白河城は前述の如く、奥羽鎮撫使世良修蔵在城、二本松藩及三春藩これを守る。然るに閏四月十八日世良参謀去るに及んで会津藩は白河城を取り、五月朔日には西軍が白河城を回復したのである)。西軍は五月の初から七月頃にかけて白河に滞在したものである
本町の芳賀本陣は西軍の病院に当てられた。皇徳寺も病院であった。銃丸の傷は竹製の水鉄砲で焼酎消毒をして荒縄で治療したといふ。当時の小銃丸は今日のものと違って直径一糎(せんち)四粍(みり)乃至一糎五粍、長さニ糎七粍乃至三糎もある鉛玉所謂椎の実玉であるから荒縄で治療したことも首肯される(当時尖頭弾丸を椎の実玉といった)
白河登町の大島久六氏宅には後の大山元帥(当時彌助)、天神町の菱屋には後の野津元帥が宿泊した。野津元帥は時に病に罹り菱屋飯田すいに世話になりたるを徳とし、元帥になられてからも同家に音信が屡々あった。先年元帥の女婿上原勇作閣下が来白、須釜嘉平太氏に一泊の時、専念寺の菱屋の墓に詣で義父の旧恩を謝された

 今南湖神社に奉納されてある上原閣下揮毫の「里仁為美」の額はすいの妹に当る大谷せいの奉納である。大山元帥は砲兵隊長として九番町口を攻め、五月朔日後は白河二番町酒屋大島久六方に滞在と同元帥伝にも見えてゐる

本町の佐久間平三郎氏宅は当時油製造を業としてあった関係上、イゴ煎釜が長州藩の兵糧部に利用されたといふ(イゴとは荏胡麻のことで油を搾る原料である)。大工町の吉成房次郎氏宅には薩藩の軍楽隊が滞在した。同氏の母堂かね媼は僅かに六歳であったが、今に太鼓の形や、笛の音を記憶してゐると語る。同氏には薩州四番隊金穀方と書いた大箱が保存されてゐる。大さは幅一尺四寸、深さ二尺、長さ三尺で、松材の五分板作りで左右に紐通しがある
年貢町の大槻佐兵衛氏宅は大垣藩の本陣であったので、戦後も長く大垣藩士との間に音信があった
松井幸太郎氏の父の宅は当時松並の権兵衛稲荷の前にあり、薩藩の宿舎であった。薩藩が白河を立って会津に向ふ時、永らく御世話になった形見にと陣羽織の裏地を置いて行かれた。今に同家に保存されて戊辰戦争の記念物となってゐる。その裏地は呉絽地で猩々(しょうじょう)が書かれてある
天神町今井清吉氏には、官軍御用の木札がある。表に官軍御用と記し、裏に官軍の二字が烙印されてある。材は杉、形は長方形で幅三寸、長九寸、厚四分、これは西軍が貨物に刺してその所有を明にしたのであらう

中町の荒井治右衛門氏には弾薬を入れた器物の蓋が残されてある。一尺一寸位の矩形である。黒地に朱漆で丸に十の字がある。薩藩の遺品である
天神町の藤田氏の記録に西軍の身支度を記して

 官軍の身支度は賊軍とは大に異なり、隊長及び卒・人夫に至るまで身軽にして、単衣着に白木綿のヒコキ帯を締め、刀一本落差にして羽織・袴等を着用せるものなく、小具足等は尚更無之。云々

西軍の服装に就ては長寿院の什物として保存されてゐる当時の薩・長・大垣・土・佐土原・館林の諸藩の忠死者百余人を描いた総髪姿の絵が最もよく説明してゐる
白河地方に今に残されてゐる服装談は、西軍は膝きりの単衣、中にはツツッポダンブクロ、坊主頭、銃は元込め、阿部様は陣笠で袴を着けた。概して和洋折衷の服装であったといふ
町内の商売は子供や婦女子は在方に避難したが、各戸相当に商ひをしてゐたものである。年貢町大谷鶴吉氏では味噌が売れたといひ、二番町の八田部万平氏などでは酒屋であったが、戦争が始まると酒は売れぬが、戦争が止むと売れたものだといふ
五月六日に、白河町問屋常盤彦之助が薩藩に殺された。白河町の常盤は、阿部の常盤か、常盤の阿部かと呼ばるゝ程の勢力を有したもので、徳川時代に於て住山・大森・大塚・芳賀の旧家と共に白河町年寄を勤め且つ問屋で地方道中取締の要職にあった

白河年貢町石倉サダ媼の談
 常盤の旦那が殺されたのは五月六日であった
中町の常盤の旦那の家には、大森町年寄や、夫の林蔵や、新宅常盤が居合わせてゐた
真夜中薩藩士二人が来て、旦那を用事あるによってと連出し、松坂屋横町、今の中町から手代町に通る横町にかゝると、旦那を二人の間に挟んで、後から斬殺した。即ち暗殺であった。旦那の首は大手前広小路に梟された
兼てから常盤家に別懇であった大工町の井筒屋の主人が、旦那の首を其の場から関川寺に持行き胴と共に火葬にして埋めた。井筒屋の主人の罪は問はれなかった。旦那の伴をした長吉は直に此の暗殺の由を常盤家に知らせると大騒となった。夫の林蔵はこれを久田野に避難してゐた奥様に知らせた。これから常盤家は勢至堂に避難した。戦争も止んだ十月になって常盤家では空棺で葬儀を行った

 序(ついで)に白坂村の大庄屋・本陣で問屋を兼ねた白坂市之助暗殺の事を記さう。市之助は江戸の御家人であるが、白河町年寄り大森家の養子となり、白坂宿の白坂家を嗣いたものである。閏四月二十五日西軍のために呼出され白坂宿の町はづれで殺された
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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