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天狗党、田中隊参謀土田衡平

2013.01/22(TUE)

「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑
あきた・通巻88号・1969年(昭和44年) 9月 1日発行・全64ページ




平成25年(2013)
・ 1月22日
 天狗党、田中隊の参謀土田衡平をネットで探していたところ、秋田県の広報誌にたどり着いた
「あきた・通巻88号・1969年(昭和44年) 9月 1日発行・全64ページ」である
 以下、これを引用してupする

「碑(いしぶみ)の周辺」(第7回)土田衡平の碑
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藩主と脱藩浪士と

 維新前夜、日本の国情はむしろ騒然たるものがあった。勤王か佐幕か、はた擁夷か開国か、現状にあきたらず何らかの変革を望む雄藩のあいだでも、互いの思惑が麻の如く乱れて、去就が容易に定まらなかった
 この間、急激に結論を求めて行動に走った人たちの中には、志を得ずして消えていった人が少なからずあった。その多くは脱藩して浪士の身に甘んじながら、悠久の大義の前に殉じていったのである
 そうした一人に、わが矢島藩の土田衡平(つちだこうへい)がいる
     *
 戦前、矢島町の小学校では、講堂の正面に平田篤胤、佐藤信淵と並べて、もう二つの肖像を飾って全校生の師表とあおいだものであった。その一つは、矢島の最後の藩主(十三代)生駒親敬(ちかゆき)であり、もう一人は、土田衡平である
 ともに勤王の志厚く、生駒親敬は明治元年戊辰の役のさい、弱冠十九歳の年少ながら、東北諸藩が幕府側に組したにもかかわらず、いち早く勤王の決意を表明した。のち秋田藩が勤王に藩論を統一したので、やがて庄内軍と一戦をまじえることになり、一時は庄内の軍火に全町が焼かれるという厄にあったが、この戦功により八千石から一万五千二百石に加増され、生駒藩の有終を飾った人である
 片や殿様に配するに、土田衡平は一浪人にすぎない。天誅組の乱、筑波天狗党の乱と尊攘運動に参加して、二十九歳の花の命をあえなく散らした青年であるが、勤王の先駆者として歴史上に大いなる炬火(たいまつ)を点じた人として、今は郷里矢島の町に碑とまつられているのである

祖先を忘る勿れ

 矢島小学校は、町の中心地、生駒氏の陣屋のあった小高い地にある。校庭の端に、さらに一段の高処(たかみ)があり、そこは矢島神社の境内であるが、その校舎寄りの杉木立ちの中に、土田衡平を顕彰する碑がある
 題額の「勿忘汝祖」というのは、天狗党の乱の時に彼が組した田中隊の「義」「皇恩勿忘」などとならぶ、旗じるしの一つであった。いうまでもなく、田中隊の参謀たる衡平の選んだ言葉である
 碑文は「矢島藩士 土田衡平伝」とあって、宮内省蔵版「殉難録稿」よりの要約
末尾には
 白露の霜と変れる今ははや君が衣手うすくなるらん
という辞世が刻まれている
 四十一年十月、土田衡平の百年忌にあたって、矢島町郷土史研究会(伊豆甚兵衛会長)の提案から、かねて土田崇敬の念のあつかった大井直太郎町長を会長とする顕彰会が誕生、ほとんど全町民の寄付によって建立されたものである
     *
 土田衡平は天保七年(一八三六)七月二十二日、矢島藩士土田又右衛門の子として生を受けている。出生には、佐藤ふよの私生児という異説もあるが、ともかく幼にして父母に死別、親戚の金子七左衛門のもとで育てられている
 幼名を覚七、又は久七、久米蔵といった。久米蔵少年はいわゆる神童の誉れが高く、たとえば彼の算盤は"二度計算はさせない"という評判であった。ある時代官と競技し、三度まで二人の算盤の答えが違ったが、彼はガンとして正解を主張してゆずらず、怒った代官が改めて難問題を出してその答えを教授格のものに調べさせたところ、やはり彼の一回の計算に誤まりがなかったというエピソードが伝えられている
 算盤ばかりではなく、書道、和歌、俳句、漢学をはじめ、柔術は因州の島源蔵に関口流を学んで奥儀をきわめたといわれている。剣は、父又右衛門がその道の達人と称されたから、当然その血をひいていた

安政大獄の年に脱藩

 安政元年(一八五四)十九歳のとき、衡平は藩の選抜で江戸藩邸詰めを命ぜられ、留守居役書記を勤めることになる
 安政元年といえば、この年一月にペリーが再び軍艦七隻をひきいて神奈川沖に来泊、幕府はついに下田、函館の二港を開くにいたった年である。いっぽうでは吉田松陰、佐久間象山が捕えられ、諸藩の志士もようやく勤王にめざめて東奔西走の動きをみせはじめ、国家はまさに内憂外患こもごもいたるという激動の秋であった
 多感な衡平の目に、こうした社会状勢がただ漫然としたものに映ろうはずはなかった。次第に勤王に目を開きつつあった彼は、そのうつぼつたる志気を押えがたく、安政大獄の起った安政五年、ついに脱藩して皇事に身を捧げることに踏切った
 彼は身に二刀のほか、筆と硯をたずさえるのみだった。その脱藩の動機について、ある日江戸家老の加川氏と国事について論争、その熱意あふるる弁舌で相手を屈服させたことから、加川家老は、藩にこのような過激思想の持ち主がいては家の不為(ふため)として暗殺をはかったことを知ったためといわれるが、真偽のほどは明らかではない
 しかし、脱藩後の衡平が京都に行き、生駒家の菩提寺妙心寺に身をよせて法務を代理しているところをみると、加川家老は衡平の俊才とその生きるべき道とを知って、庇護をくわえていたのではないだろうか

天誅組の乱で散る

 京にあって衡平は、藤本鉄石に学んだ。鉄石その人は文武ともにすぐれ、とくに天心流独名流の剣と長沼流の兵学において知られていた。文久三年(一八六三)八月十四日、わずか三十余名で京都から大和へ討幕の兵を進めた、いわゆる天誅組の乱は、十九歳尊攘派の公卿中山忠光を主将に、土佐の吉村寅太郎、三河の松本奎堂、そして藤本鉄石が中心人物である。土田衡平も、三十余名のなかの一人であった
 八月十七日、彼らは大和五条の代官所を襲って代官を斬った。その翌日である、いわゆる公武合体派による尊攘派排撃のクーデターが起ったのは。天誅組の蜂起はタイミングを失した。彼らは十津川に南下し、そこで"朝命"と称し十津川郷士千人の味方を得たものの、まもなく鎮撫の諸藩兵に挟撃されて、ようやく大阪の長州藩邸に逃げのびた中山忠光ら七人を除いては、藤本鉄石らすべて戦死か捕えられ、天誅組はあえなく潰滅したのである
 もっとも衡平は、藤本鉄石の門にあったまま天誅組に参加したわけではない。そのころ岩倉具視や三条実美ら尊攘派の公卿とも交わりを深くしていた彼は江戸の情勢をさぐるとともに、さらに学問の道を深めようと、いったん江戸に帰っている。そして昌平黌(しょうへいこう・幕府直轄の学校、当時の最高学府)の儒官古賀茶渓の久敬舎に入った
 そこで机を並べた一人に、越後長岡藩の偉材河井継之助がいる。河井は戊辰戦のとき長岡藩家老の職にあり、嘆願書を出して局外申立をはかったが容れられず、ついに賊将の汚名の下に死んだが、その器量は抜群の人といわれた。その人となりについては、最近司馬遼太郎が小説「峠」に描いている

河井継之助墓(2014.08/06)

変名し足利に雌伏

 久敬舎で二人は衆に抜きんでていた。河井に兄事した人に足利の鈴木三郎があり、河井が四国松山に儒者山田方谷を訪ねて西遊するときまったとき、鈴木はこののち誰を師とたのむべきかと問うと、河井は「それは他ない、土田衡平ばかりだ」と答えている。この時、河井三十六歳、衡平は二十四、五歳であろうか
 そして、天誅組の敗北から運よく死をまぬがれた衡平が、どうにか辿りついて身を寄せた先は、久敬舎時代にもかくまわれていた鈴木のもとであった。三郎の父千里は足利藩の医師だが、水戸の藤田東湖と通じ国事に奔走した人だった。三郎の十歳ぐらい下に園女(のち峰岸姓)という妹がいた。この人は昭和三十年ごろに亡くなったが、生前"上田衡平伝"に関して、貴重な数々の証言をしている。本文に掲げた衡平の肖像も、園女の証言からモンタージュ的に、矢島出身の絵師小野彦松が描いたものである。小野の父元佳は藩医で、ことに藩主親敬に勤王を説いた人として有名である
 園女はまた、衡平が鈴木邸にかくまわれていた時は「秋田」と変名していたこと、その志士的情熱を敬慕して彼に恋心を寄せた女性のあったこと、などを語っている。藤本鉄石も足利を訪ねており、おそらくこれが天誅組への勧誘であったろう。明治二十年に刊行の菊亭静著「錦の御旗」という小説には、同盟血判して天誅組に加わった土田兵庫のことが、くわしく描かれている

田中隊の名参謀

 天誅組の乱の翌元治元年(一八六四)三月二十七日、こんどは水戸藩の藤田小四郎(東湖の四男)を中心に、水戸町奉行田丸稲之衛門を総裁とする二百余人が、先君徳川斉昭の遺志を奉じて尊王攘を実現しようと挙兵した。筑波山に集結したので筑波隊とも、また異名を天狗党とも称されている
 この騎兵隊長に田中愿蔵がいる。昌平黌で安井息軒に漢学を学び十九歳で帰藩すると、那珂郡野口村にある藩校時擁館の館長となった俊才である。挙兵のときわずか二十一歳、しかも彼の徳を慕い、たちまちにして五百余人、しかもほとんど若者たちがその傘下に馳せ参じたほどの傑物であった
 衡平は他藩浪士ゆえ隊長にはなれなかったが田中隊参謀として終始愿蔵と行動を共にしている。二人の出会いのいきさつは不詳だが、矢島出身の土田誠一(元成渓高校校長)の「調査資料」によれば、藤田小四郎が軍資調達のため足利の鈴木千里を訪れて初めて衡平と知るが、この時彼は回天の機尚早として勧誘を固辞した。しかし田中愿蔵に強要されて、乱の途中からこれに加わったことになっている
 これに対し前掲「錦の御旗」は、先に衡平が天誅組に参加せんとして一面識にすぎぬ愿蔵に五十両の借金を申し入れ、逆に百両を貸し与えられた厚誼にむくいたものとしている

相馬の地に斬らる

 秋口にいたり、天狗党は分裂した。もともと攘夷が目的で倒幕の意志は弱かったので、急進過激な勤王派の田中愿蔵は、作戦上の食い違いもあって本隊を除名され、孤立して別行動をとることになった。しかし衡平の知謀よく、彼らは善戦した。その転戦の模様を今くわしく述べる紙幅を持たないが、各地で幾度か二本松勢を敗走させた戦は痛快で、九月十八日は助川(今の日立市)の城を占領した
 だが、その時期には衡平と愿蔵とのあいだにも、思想上か作戦上の齟齬(そご)があったようで、助川占領の前に衡平ら少数の者は那珂湊から東北へ脱出し再起をはかろうと試みている。しかし船は難破し、七人が漂流して相馬藩中村の仏浜へたどりつき、そこで捕えられた
 相馬藩の助命嘆願むなしく、衡平は同年十一月五日、斬首の刑に処された。享年二十九歳、辞世の歌には、稗に刻まれたもののほか
 徳川の濁りに身をや沈むとも清きその名や千代に流れん
 古もかかるためしを菊水の流れくむ身となるぞうれしき
 の二首がある
 衡平の遺骸は、相馬市内の向上に葬られたが、その忠死をあわれんだ雲洞寺住職がのち寺内に移し、裏に辞世を刻んだ碑を建てたという
 助川の城は、九月二十七日に千六百の追討勢に囲まれた。愿蔵ら三百五十余名は城に火を放って八溝山に逃れたが、戦はこれまでであった。各自に残りの軍用金を分配し、隊を解散してこもごもに下山した。これがかえってわざわいした。金を目当てに麓の農民たちに捕えられて密殺されたものが多く、逮捕の記録には百七十二人しかなかったといわれる。愿蔵は十月八日に斬罪さらし首の刑を受けた。時に二十一歳の若さである

町では叙勲運動中

 天狗党の一件は、数多くの小説に描かれている。戦後でも中山義秀の「黒頭巾異聞」や大仏次郎の「夕顔小路」があるが、昨年劇団民芸の上演した三好十郎作の「斬られの仙太」は天狗党の乱を農民の側から描いて武士階級--権力の側の非情と残離を告発したものであった
 最近作にユニークな時代作家として売出した八切止夫の「元治元年の全学連」がある。水戸の私学塾に学ぶ若い学生を主力の挙兵を現代の全学連になぞらえた発想だが、虚実とりまぜのもとより小説にすぎない。しかし土田衡平の智謀ぶりは、全篇にわたって描かれている
 ただ、峰岸園が「先生はなかなかの美男子で、目が丸くかわいらしく、くちびるの色のよい人で、子どもながらに美しい人だと思いました」と語るその容貌が、八切止夫によれば「土田はみつ口で眼がけわしく」というのは、いかなる資料によるものだろうか
 天狗党は、運用金調達のため豪商から金をまきあげた。一味には野州あたりの博徒くずれも加わっていたし、何かのいきさつで栃木の町を全焼させたのも天狗党の悪名となっている。しかし、天狗党のこうした犠牲があったからこそ、やがて維新の大業は果たされたのである
 いま矢島町では、土田衡平の叙勲について運動中である。明治二十四年十一月五日、法名、大極院義鑑忠衡居士は靖国紳社に合祀されてようやく名誉を回復したが、現在、他の田中隊の志士のなかには正五位、従五位を贈位されている人も少なくなく、町民たちは、せめてその程度の贈位をもって国家が衡平の勤王の赤心を認めてくれる日を待ちこがれている

1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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