山縣有朋記念館

2012.11/20(TUE)

山縣有朋記念館 栃木県矢板市上伊佐野1022




平成24年(2012)
・11月20日
 山縣有朋記念館を見て来た
 山縣有朋
 戊辰戦争では新政府軍参謀として北越方面で戦い、明治になっては陸軍の確充に尽力し陸軍卿など要職を歴任し、陸軍大将・元帥となった。2度総理大臣を務め政界、軍部に絶大な権力を誇った

 記念館から新聞のコピーを頂戴したので以下に引用してupする

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名建築を訪ねる・首都圏
山縣有朋記念館
質素な館、明治の重鎮集う

「元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵」--。
 位人臣を極め、近代日本の政界に君臨し続けた山縣有朋(1838-1922)。その燦然たる経歴に比べると、栃木県北部の森林にたたずむ「山縣有朋記念館」の質朴さには意外な感を受ける。
 隣接する木造二階建て二棟からなり、正面に向って左側の青い建物が「明治の洋館」。右側の赤い屋根が、昭和になって建てられた新館だ。
 明治の洋館はもともと、有朋が古希の年に建てた神奈川県小田原市の別荘「古希庵」敷地内に
一九〇九(明治四十二)年になって建築されたものだ。
 有朋の死後の二三(大正十二)年、古希庵の大部分ともども、関東大震災で損傷。翌年、嫡男伊三郎氏が保存のため栃木県矢板市の山縣農場内に移築。二七(昭和二)年には山縣家の別荘として、隣に新館が増設された。
 長らく賓客の応接用となっていた明治の洋館は九〇年、県の有形文化財に指定されたのを機に、ひ孫の故・有信氏夫人睦子さんが遺品や資料を展示し、新館と併せて「山縣有朋記念館」として一般公開を始めた。
 明治の洋館の建築面積はわずか八十平方メートルほど。一階にはロビーと一部屋、二階も応接室と寝室の二部屋しかない。そんな質素なたたずまいとはいえ、設計者が明治神宮などを手掛けた名建築家・伊東忠太(1867-1954)とあって、随所に当時最先端の装飾が施されている。
 玄関や各部屋に通じるケヤキの扉には、有朋の頭文字「Y・A」が、曲線を用いたアールヌーボー調の文字でデザインされている。二階の欄間はガラス製の回転式。いすやテーブル、赤いじゅうたん、インド更紗のカーテンと、応接室の調度品はすべて当時のものだ。
「広さも派手さもないが、一つ一つの意匠が調和しており、いかにも実用本位の有朋らしい」。七八年の調査、九一年の改修を手掛けた千葉工業大学の河東義之教授(近代建築史)は言う。
 二度の首相と枢密院議長を歴任後も、絶大な権力を維持し続けた有朋。晩年を過ごした古希庵には元老や首相、閣僚らが頻繁に足を運んだ。この応接室から近代日本の政治が動かされたのか--。有朋が愛用した調度品に触れながら、ふとそんな感慨を覚えた。(小倉貞俊)

2008.02.13 東京新聞
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by mo20933 | 2012-11-20 20:02 | 矢板市 | Comments(0)