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大原村の戦い

2012.10/18(THU)

大原村の戦い「南柯紀行」から
慶応 4年(1868) 6月25日




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小原沢の戦い(2012.10/17)
藤原の戦い(2012.10/16)
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大原村の戦い_c0185705_16271113.jpg

 会幕軍は本営を藤原(新藤原駅付近、現星七郎氏方)に置き、前哨陣地を大原(地図で大原、信号のある三叉路附近、現藤原中学校辺)に置いた
 新政府軍、肥前佐賀藩と宇都宮藩は連携して藤原・大原の攻撃を開始した(この時大鳥、山川は不在)。攻撃は佐賀藩の持つ後装式アームストロング砲が威力を発揮するなどして快勝。藤原本営の占領は出来なかったものの、小佐越、大原の前哨陣地を占領した
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慶応 4年(1868)
・ 6月25日 大原村の戦い
「南柯紀行」から引用


 六月二十四日、予山川大蔵に色々談話の事ありて五十里駅に至る、是れ大蔵此間より同駅に往き留りて帰らざるを以てなり、然る処翌二十五日午時頃にもありけるか藤原表より急飛脚急状を持来り、今暁より今市、船生の敵軍大原村の曠原に押寄せ先刻より戦争相始まり、只今大乱中に有之困却致候、此急状着次第直ちに帰陣致呉れとの義なり、大に驚き直ちに急駕を命じ返らんとせしに、不幸なる哉此頃より霖雨にて五十川溢漲し渡るべからず、漸く川船にて漕ぎ渡り、途中にて又急使に遇い、其書状を開き見るに大原戦争の模様宜しからずとの事なり、猶駕(籠)を急がせ高原へ帰り来りし処歩兵体の者追々南方より来るを見るゆえ何者ぞと尋ねしに、第三大隊の兵士にて今朝より大原にて敗軍し此村に引揚げ、則隊長も来り居れりと云余愕然切歯に堪えず隊長に会いしに其の語る処今兵士より聞きし次第に異ならず、敵小佐越の方なる川岸より「アルムスツロンス(アームストロング)」の野戦砲を以て頻りに射撃せし故、之れに向て打(撃)合いし故、敵は散兵を左側の山へ登せ我が左側幷に背面を打ちし故之を防ぐ能わず引退き大原村にても防ぐ能わず、同村迄は草風隊の援兵来りしかども烈戦にも至らず引揚げ、同村も敵の為に放火せられ藤原迄返りし処、同村には宿陣の処もなく当駅まで引退きたりと云、余之を聞き余が留主(守)中と雖も手筈の事は兼ねて隊長へ申含め置たるに、其詮なく不埒の挙動なりと甚だ奇怪に思えど今更之を譴責するも益なし、今日戦い負けて是迄引揚る程なれば敵軍又明日藤原へ押寄る事必定なり、是より急ぎ帰り防戦の手筈を為し今日の恨を晴さんと言い捨て直ちに乗駕し、四ツ過ぎし頃藤原に着き本日の戦いの模様を一と通り糾明し、明暁敵又襲来するに相違なし因て何れも大憤(奮)発して今日の恥を雪ぐべしと一同へ令し、即ち専ら防禦の索を運らしたり、藤原村の向岸なる下方に、滝の湯とて温泉場あり、此辺の人家へ敵今夕方より潜伏し居る由なりと聞きし故、凡距離も分りおれば手臼砲打にて驚かすこと一索なりと思い付き、其掛りの者へ命じ三四発撃たしめしに果して敵二十人計りも隠れ居り、此砲声に怖れ逃げ帰りし由なり。

--参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介--



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by mo20933 | 2012-10-18 16:33 | >藤原