小原沢の戦い

2012.10/17(WED)

小原沢の戦い 「南柯紀行」から
慶応 4年(1868) 6月26日




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藤原の戦い(2012.10/16)
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※ 小原沢(鬼怒川公園駅付近)に陣を置いた大鳥圭介軍は、新政府軍を迎え撃つ体勢を整えた

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慶応 4年(1868)
・ 6月26日 小原沢の戦い
「南柯紀行」から引用


 今夜は暫く眠らず、小泉村胸壁築立の事を指揮し七つ時頃より余も小原に出張し先ず本道と川向うとを防ぐ、胸壁を築立てんと頻りに人足を鞭韃(撻)して之を急ぎ、漸く半出来たる頃、即二十六日朝五つ時頃にもありたるか小佐越の方に当り小銃の声遥に聞えたり、暫時ありて兼て差出し置たる物見の者馳せ帰り、敵鬼怒川の両岸に上り来り、先鋒は已に二十町計の処まで進来れりと云、未だ胸壁は成らざれども草風隊を正面に備え伝習士官隊の者を川岸に配ばり第二大隊の内を山林の間に散布し、其余の第二大隊を応援に残し、夫々手筈を定め今や来ると待かけし処間もなく敵の先鋒川向に来り、大砲を放ちながら次第に進み来れども身(味)方格別発砲せず敵愈勢いに乗じて前進し、又本道の方へも追々押し来り互いに血戦に及び、敵は多勢の強兵なれば容易に辟易する色なく大小砲連々打続て、川向の岸を経て猶奥深く進み我陣の横を撃たんとせしを、我樹陰の胸壁より一斉に小隊打を為せしに由り、大に驚き少し引色見えし故味方猶烈敷打立て、本道の方にては午時頃迄は互いに小銃の打合盛なりしが、敵味方とも小谷を隔て小高き処にあれば双方とも近寄る能わず、味方も今朝より引続き戦いければ、余程疲労せり、於是予備に残し置きたる兵半小隊計を浅田鱗(麟)之介(助)に率かせ、本道の方に向わしめしに、味方新兵の加わりたるを以て大に気力を得、第二中隊の者並に草風隊の兵士勇を奮い、士官は刀を抜き兵士は剣を附け、声を揃えて胸壁より飛び出し、谷川を渡り切り入りしにより、敵狼狽敗走踏止りて戦い者も余程ありたれども、大抵之を打倒し切斃し追行きしに、谷間に下り戦い居りし者は急卒の事なれば、逃げ道を失い困迫せるを切殺したるも多し、已に本道敗れ味方之を追撃したる上は、川向うの敵後しろを断たるるの患ある故、益引色にて戦う処を愈烈敷連発せし故多く弾薬器械を打棄て散々に敗走せり、乍去二十町計りも追撃して之を逐うことを止め、八つ時凱旋せり、川向うの敵は順道を経て帰る能わず、多くは山へ逃げ登りし処深山にて素より路なき処なれば、大に餓え翌晩漸く今市に帰りたる者ありと云事を後ちに聞き知りたり。
 本日味方死傷大抵如左
  士官戦死 草風隊長 村上求馬 隊士一人
   傷  者 草風隊軍目会入(人)某一人
   兵士薄手三人戦死無之
    分 捕
   小銃 二十挺計  元込弾薬 五六千発  刀 十四五本  長持 一棹  雑具品々
  斬首十四五
 此戦争に最功勲ありしは草風隊の村上求馬、鈴木弥七郎今一人は名を失したり、第二大隊中にて滝川充太郎、浅田鱗(麟)之助、大村卓司なり会津侯より羅紗を贈りて其功を賞せられたり。
 後ちに川向うの戦地に渡り之を巡視せしに、路傍の松杉等小銃の弾痕星の如くにて其辺り血流れ弾薬兵糧散乱せり。
 其後敵大原辺迄は巡邏に来りたり、互に番兵の者と砲発すれども格別の戦いに至りし事なし。
 六月中無事。

--参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介--



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by mo20933 | 2012-10-17 20:46 | >藤原 | Comments(0)