東軍殉難者慰霊碑

2012.10/12(FRI)

東軍殉難者慰霊碑




平成24年(2012)
・10月12日
 11日に母成峠を見たが、峠から猪苗代よりに少し下ると右手に「東軍殉難者慰霊碑」入口の案内板があって、車道から100メートル程行った先である

母成峠、十六橋の戦い(2012.10/11)

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東軍殉難者慰霊碑
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写真 2012.10/11

以下、現地の案内板から

 母成峠の戦いは、慶応四年(1868)八月二十一日、こヽ母成峠周辺を戦場として戦われた。この日、本宮、玉ノ井村に結集を終った西軍は、兵を三分し、谷干城(土佐)の率いる凡そ千名は勝岩(猿岩)口へ、板垣退助、伊地知正治の率いる凡そ千三百名は石筵本道口へ、川村純義(薩摩)の率いる三百名は山葵沢より達沢口へ、一斉に進発した。これを迎え撃つ東軍は、総数僅かに八百名、勝岩口には勝岩上に、大鳥圭介の率いる伝習第二大隊及び会・二本松兵併せて三百名が守備に当り、勝岩下には、新選組凡そ七十名を配置し、土方歳三・山口次郎がこれを指揮した。
 石筵本道口の第一台場(萩岡)第二台場(中軍山)第三台場(母成峠)には、会津藩主将田中源之進・二本松家老丹羽丹波、伝習第一大隊長秋月登之助らの指揮する会・仙・二本松及び伝習第一大隊併せて四百数十名が守備に当った。
 戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分れ、午前九時頃から凡そ七時間に及ぶ激戦を展開したが、圧倒的な兵数と火力の差は如何ともすることができず、東軍は北方高森方面、西方猪苗代方面に敗退した。このため、西軍は、二十二日十六橋を突破し、二十三日戸ノ口原を経て、怒涛のように会津鶴ヶ城に殺到した。
 東軍戦死者 八十八名 西軍戦死者 二十五名

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以下、現地の案内板から

東軍殉難者埋□□
慶応四年八月二十一日、母成峠の戦いの東軍戦死者の遺体は当時西軍のきびしい命令により埋葬を許されず戦後暫くの間、放置されたままになっていたがこれを見かねた近くの人々が西軍の眼をぬすんで遺体を集め仮埋葬した。その後この地は雑草に覆われてその所在がわからなくなっていたのを、百十余年後の昭和五十三年六月二日猪苗代地方史研究会の手によって発見された。その後子孫を中心として母成弔霊義会を結成し毎年慰霊祭を執り行ってきたが、昭和五十七年十月六日東軍殉難者慰霊碑建設と同時に長く保存することにしたものである。

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by mo20933 | 2012-10-12 18:30 | >母成峠 | Comments(0)