壬生城跡
2012.09/09(SUN)
壬生城跡
平成24年
・ 9月 9日
この時期、山では朝夕は寒い程になって日中の風も涼しくすっかり秋めいて来た。そんな時に壬生に行ったのだが、暑い!
>壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
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・壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)
以下、現地の案内板から
壬生城本丸址
壬生城は室町時代のなかば、文明年間(1469-86)に壬生綱重によって築かれたといわれています。各地の大名が勢力を競っていた戦国の世にあって、約100年もの間、壬生氏の主要な城となっていました。
しかし、壬生氏は小田原城の北条氏に味方していたために、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めにより、北条氏とともに亡びました。
慶長六年(1601)からの110年間は、日根野氏(一万石)・阿部氏(二万五千石)・三浦氏(二万石)・松平氏(四万二千石)・加藤氏(二万五千石)というようにたびたび城主が替わりました。そして、正徳二年(1712)鳥居忠英(ただてる)が近江国水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの約150年間、鳥居氏(三万石)が代々城主となりました。
江戸時代の記録によると、壬生城は本丸・二の丸・Ξの丸・東郭・下台郭・正念寺郭の六つの郭からなり、これらの郭は土塁と堀でかこまれていました。また天守や櫓(やぐら)といった建物は建てられていませんでした。
本丸は約140m四方の大きさで、南と北に門があり、土塁の上には塀がめぐっていました。
また、本丸内部には御殿があり、江戸時代の初めには将軍の日光社参の宿舎として使われました。現在、本丸址もその南側を残すのみとなりましたが平成元年に城址公園として整備され、県内に残る数少ない近世城郭の一つとなっています。
平成二年三月
壬生町教育委員会
御祭神 鳥居彦右衛門元忠公「精忠神社」
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
壬生城跡
平成24年
・ 9月 9日
この時期、山では朝夕は寒い程になって日中の風も涼しくすっかり秋めいて来た。そんな時に壬生に行ったのだが、暑い!
>壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
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・壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)
以下、現地の案内板から
壬生城本丸址
壬生城は室町時代のなかば、文明年間(1469-86)に壬生綱重によって築かれたといわれています。各地の大名が勢力を競っていた戦国の世にあって、約100年もの間、壬生氏の主要な城となっていました。
しかし、壬生氏は小田原城の北条氏に味方していたために、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めにより、北条氏とともに亡びました。
慶長六年(1601)からの110年間は、日根野氏(一万石)・阿部氏(二万五千石)・三浦氏(二万石)・松平氏(四万二千石)・加藤氏(二万五千石)というようにたびたび城主が替わりました。そして、正徳二年(1712)鳥居忠英(ただてる)が近江国水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの約150年間、鳥居氏(三万石)が代々城主となりました。
江戸時代の記録によると、壬生城は本丸・二の丸・Ξの丸・東郭・下台郭・正念寺郭の六つの郭からなり、これらの郭は土塁と堀でかこまれていました。また天守や櫓(やぐら)といった建物は建てられていませんでした。
本丸は約140m四方の大きさで、南と北に門があり、土塁の上には塀がめぐっていました。
また、本丸内部には御殿があり、江戸時代の初めには将軍の日光社参の宿舎として使われました。現在、本丸址もその南側を残すのみとなりましたが平成元年に城址公園として整備され、県内に残る数少ない近世城郭の一つとなっています。
平成二年三月
壬生町教育委員会
御祭神 鳥居彦右衛門元忠公「精忠神社」
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
by mo20933
| 2012-09-09 21:19
| 壬生町