六斗地・油井・阿久戸から板室で戦闘
2012.07/13(FRI)
六斗地・油井・阿久戸から板室で戦闘
>板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)
平成24年(2012)
・ 7月13日
慶応4年(1868)閏4月21・22日の両日、六斗地、油井、阿久戸から板室で戦闘があった。この戦闘で戦死した会津藩兵士17名を祀った供養塔を見て来た。この供養塔は、明治27年4月に地元の有志によって建てられたと云い、道しるべも兼ねていたようで、「右ろくとぢ(六斗地)、左いたむろ」と刻まれている
[供養塔表面]
右ろくとぢ
拾七名廿七回忌
戊辰戰死供養塔
明治廿七年四月廿二日創立之
左いたむろ
--------------------
慶応 4年(1868)
・閏 4月 6日-16日
一旦日光から撤退した会幕軍は田島で軍の再編をし配置部署を定めた
第一大隊( 450) 三斗小屋
第二第三の 2大隊( 650) 日光口
第四大隊・草風隊 塩原口
同純義隊 白河口
・ 会幕軍
田島で軍を再編した会幕軍は
第一大隊・別伝習隊・伝報隊・大砲隊・工兵隊が会津中街道を南下して三斗小屋~板室方面へ向った
総数約 600人
隊長 秋月登之助
参謀 工藤(内田)衛守(別伝習隊)
松井九郎(牧原文吾)
いずれも元・御先備の会津脱藩士である。秋月と共に伝習第一大隊を率いた土方歳三は宇都宮で負った傷の治療中で不在であった
・ 西軍(新政府軍)
薩摩・長州・大垣・忍の各藩隊ら、白河戦線の応援の為に大田原城に集結した
--------------------
板室の戦い
・閏 4月20日
板室に滞陣した会幕軍は、大田原城攻撃のため伝習二小隊を塩野崎へ先発させた
・閏 4月21日
会幕軍は斥候隊(一番小隊)・大砲隊・二番中隊・回天隊・伝報隊・別伝習隊を三道に分けて出撃したのだが、先に出撃の情報を得ていた西軍は塩野崎で待ち伏せて襲撃した
不意を突かれた会幕軍は反撃もまゝならず、板室に撤退した
西軍は薩摩・長州・大垣・忍の4藩、約200人はそのまま塩野崎に泊陣し、翌22日に油井から板室を襲撃することとなる
・閏 4月22日
六斗地、油井、阿久戸から板室で戦闘
西軍は戦闘後板室、阿久戸、油井の家々を焼払って大田原に戻った
会幕軍、三斗小屋に撤退
小笠原新太郎(伝習第一大隊)戦死
--------------------
油井を見下ろせる高台の道路から。手前の集落が油井で那珂川を挟んで阿久戸の高台(山林)がある
戊辰戦死供養塔は油井から那珂川に掛る橋(現在下流に新たな橋を建設中)を渡り、坂道の大きくカーブした直ぐ先(左側)にある。阿久戸地内
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--参考文献;「三斗小屋温泉誌」--
六斗地・油井・阿久戸から板室で戦闘
>板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)
平成24年(2012)
・ 7月13日
慶応4年(1868)閏4月21・22日の両日、六斗地、油井、阿久戸から板室で戦闘があった。この戦闘で戦死した会津藩兵士17名を祀った供養塔を見て来た。この供養塔は、明治27年4月に地元の有志によって建てられたと云い、道しるべも兼ねていたようで、「右ろくとぢ(六斗地)、左いたむろ」と刻まれている
[供養塔表面]
右ろくとぢ
拾七名廿七回忌
戊辰戰死供養塔
明治廿七年四月廿二日創立之
左いたむろ
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慶応 4年(1868)
・閏 4月 6日-16日
一旦日光から撤退した会幕軍は田島で軍の再編をし配置部署を定めた
第一大隊( 450) 三斗小屋
第二第三の 2大隊( 650) 日光口
第四大隊・草風隊 塩原口
同純義隊 白河口
・ 会幕軍
田島で軍を再編した会幕軍は
第一大隊・別伝習隊・伝報隊・大砲隊・工兵隊が会津中街道を南下して三斗小屋~板室方面へ向った
総数約 600人
隊長 秋月登之助
参謀 工藤(内田)衛守(別伝習隊)
松井九郎(牧原文吾)
いずれも元・御先備の会津脱藩士である。秋月と共に伝習第一大隊を率いた土方歳三は宇都宮で負った傷の治療中で不在であった
・ 西軍(新政府軍)
薩摩・長州・大垣・忍の各藩隊ら、白河戦線の応援の為に大田原城に集結した
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板室の戦い
・閏 4月20日
板室に滞陣した会幕軍は、大田原城攻撃のため伝習二小隊を塩野崎へ先発させた
・閏 4月21日
会幕軍は斥候隊(一番小隊)・大砲隊・二番中隊・回天隊・伝報隊・別伝習隊を三道に分けて出撃したのだが、先に出撃の情報を得ていた西軍は塩野崎で待ち伏せて襲撃した
不意を突かれた会幕軍は反撃もまゝならず、板室に撤退した
西軍は薩摩・長州・大垣・忍の4藩、約200人はそのまま塩野崎に泊陣し、翌22日に油井から板室を襲撃することとなる
・閏 4月22日
六斗地、油井、阿久戸から板室で戦闘
西軍は戦闘後板室、阿久戸、油井の家々を焼払って大田原に戻った
会幕軍、三斗小屋に撤退
小笠原新太郎(伝習第一大隊)戦死
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油井を見下ろせる高台の道路から。手前の集落が油井で那珂川を挟んで阿久戸の高台(山林)がある
戊辰戦死供養塔は油井から那珂川に掛る橋(現在下流に新たな橋を建設中)を渡り、坂道の大きくカーブした直ぐ先(左側)にある。阿久戸地内
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--参考文献;「三斗小屋温泉誌」--
by mo20933
| 2012-07-13 21:28
| >六斗地・油井・阿久戸