板室・大田原城・三斗小屋の戦い

2012.06/21(THU)

板室・大田原城・三斗小屋の戦い




平成24年(2012)
・ 6月21日
 三斗小屋宿には未だ行った事がない。一日をかけて、ユックリとノンビリなら或いは可能かとも考えるが今の時期クマが怖い。沼っ原から麦飯坂、ここを下って三斗小屋宿に至るコースが良さそうだ
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慶応 4年(1868)
・閏 4月 6日-16日
 一旦日光から撤退した会幕軍は田島で軍の再編をし配置部署を定めた
  第一大隊( 450)     三斗小屋
  第二第三の 2大隊( 650) 日光口
  第四大隊・草風隊     塩原口
  同純義隊         白河口
・ 会幕軍
 田島で軍を再編した会幕軍は、第一大隊・別伝習隊・伝報隊・大砲隊・工兵隊が会津中街道を南下して三斗小屋から板室方面へ向った
 総数約 600人
  隊長 秋月登之助
  参謀 工藤(内田)衛守(別伝習隊)
     松井九郎(牧原文吾)
 いずれも元・御先備の会津脱藩士である。秋月と共に伝習第一大隊を率いた土方歳三は宇都宮で負った傷の治療中で不在
・ 西軍(新政府軍)
 薩摩・長州・大垣・忍の各藩隊ら、白河戦線の応援の為に大田原城に集結した
     *
板室の戦い
慶応 4年(1868)
・閏 4月20日
 板室に滞陣した会幕軍は、大田原城攻撃のため伝習二小隊を塩野崎へ先発させた 
・閏 4月21日
 会幕軍は斥候隊(一番小隊)・大砲隊・二番中隊・回天隊・伝報隊・別伝習隊を三道に分けて出撃した。しかし、先に出撃の情報を得ていた西軍はこれを塩野崎で待ち伏せて襲撃した
 西軍に不意を突かれた会幕軍は反撃もまゝならず、板室に撤退する
 西軍(薩摩・長州・大垣・忍の4藩)の約200人はそのまま塩野崎に泊陣し、翌22日に油井から板室を襲撃することとなる
・閏 4月22日
 六斗地、油井、阿久戸から板室で戦闘
 西軍は会幕軍を撃破した後、板室・阿久戸・油井の家々を焼払って大田原に戻り、会幕軍は三斗小屋への撤退を余儀なくされた
 この戦闘で小笠原新太郎(伝習第一大隊)、野村勝三郎(伝習隊)戦死

大田原城攻撃(再)
・ 5月 2日
 会幕軍、2度の敗戦で三斗小屋に撤退したが、再度大田原城を攻撃
 新たに
  会津藩の原田主馬隊(朱雀足軽三番隊)
  有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)
  飯野藩脱藩の森要三隊
の三部隊が加わり途中から二手に分れて進撃した
 このとき大田原城にいた西軍だが主力の薩摩・長州らが白河戦の応援に出払っていて、僅かな大田原藩兵が残るのみ。戦いは会幕軍が圧倒したのだが占領は出来なかった。この夜、会幕軍は石林村(現西那須野)を焼払い、関谷で泊。翌日塩原に入って休息した後田島へ向った
 その後、三斗小屋には青龍足軽四番隊と第一大隊の半分も再び滞陣するが、第一大隊の半分は6月に入ると撤収して、残るは
  有賀左司馬の青龍足軽四番隊
  原平太夫の青龍寄合二番隊(前は日光口にいた)
の計 100~ 200名の会津藩隊だけの布陣となる
・ 7月25日
 三斗小屋にいた会津藩隊の一部が黒羽藩領(高久地区)の13ケ村を放火、100戸以上の民家が焼払われた
・ 8月22日
 西軍、白河にいた館林藩3小隊と黒羽藩3小隊が、三斗小屋を目指して出発。彼等は三斗小屋の会津藩隊を撃破し、会津西街道にいる西軍と合流して若松へ攻め込む事にしていた。三斗小屋へは、那須岳を越えて行く部隊(北温泉泊陣)と、会津中街道の板室から行く部隊(大沢泊陣)の二手に分れた

三斗小屋の戦い
・ 8月23日 
 那須岳越えの襲撃部隊は、更に北回り(大丸経由)と南回り(那須湯本経由)の二手に分れて進軍した。先に戦闘が始まったのは南回りの隊の方面で、会津藩隊を撃破した諸隊はこの日から三斗小屋に泊。ともに襲撃する事になっていた板室回りの部隊だが、進軍に手間取り三斗小屋手前の沼ケ原で夜を明かし、戦闘には間に合わず。翌24日に合流した
 青龍足軽四番隊、10名以上の戦死者を出す
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
 この日の戦闘で
  青龍足軽四番隊長の有賀左司馬(32才)
  同寄合二番隊長の原平太夫(44才)
等が戦死。残った隊士は野際を退き、田島方面の会津藩隊に合流した模様
・ 9月 1日
 三斗小屋に戻った館林&黒羽藩隊は会津へ向けて出発。途中、会津西街道を北上してきた西軍諸隊と合流して大内峠を越え、関山で凌霜隊など会幕軍と衝突しつつ若松へ向った
・ 9月 8日 明治と改元
明治元年(1868)
・ 9月10日
 残留部隊によって三斗小屋は全戸焼き打された
--参考文献;三斗小屋温泉誌--
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■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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by mo20933 | 2012-06-21 23:37 | >三斗小屋宿 | Comments(0)