白河城の攻防

2012.06/02(SAT)

白河城の攻防




平成24年(2012)
・ 6月 1日
 白河城に行く。パイレーツ・オブ・カリビアンを聞きながら凡そ1時間。着いたらナント!石垣が崩落していた。で、その石垣修復工事中で三重櫓等見学は出来ず
 平成23年 3月11日の東日本大震災及び 4月11日の余震によるもので、崩落は10箇所

  ・本丸南面
  ・月見櫓台
  ・本丸北・西面
  ・帯曲輪北面
  ・搦手門跡
  ・竹之丸南面西
  ・ 〃   東
  ほか 3箇所

 修復は平成23年度に本丸南面、24年度に月見櫓台ほかの予定。崩落石材に番号を付け、崩落前写真との照合などきめ細かな作業が予定されていて良質な修復が期待出来る。なお白河市は崩落原因を究明するため地質調査等を行って来たとのこと

 雨も降ってきたので「集古苑」を見学。冊子を購入しパンフレットを頂戴して来た


 ※ 写真、石垣崩落前
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慶応 2年(1866)
・ 6月19日
 白河藩主阿部正外(老中、越前守、豊後守)兵庫開港問題で強制隠居。長男の阿部正静、藩主となる
慶応 3年(1867)
・ 1月
 阿部正静、棚倉に移封。白河城、空き城となり二本松藩預かりとなる

白河城争奪戦
慶応 4年(1868)
・閏 4月19日
 白河城、二本松藩兵が守備していたが会津藩兵(青龍隊・新選組)が侵攻し占領。新選組、土方歳三は負傷により戦列を離脱、山口二郎(斎藤一)が指揮した。白河城南方の守備を固めるため、白坂口と棚倉口の小山や丘に兵を配備し防御態勢をとる
・閏 4月25日
 新政府東山道軍、参謀・伊地知正治、部隊長・野津鎮雄、川村純義(薩摩藩兵を中心に大垣、長州、忍の各藩兵)は宇都宮から大田原まで進軍しており白河へ前進、白坂口を奇襲したが会津藩兵の迎撃にあい、損害を出して芦野(現那須町)へ撤退
・閏 4月26日
 白河口総督・会津藩家老西郷頼母、副総督・同若年寄横山主税、白河城に入る。仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着した
 新政府軍、宇都宮城の土佐藩兵に協力を要請し、東山道軍に薩摩藩の他の部隊を合流させ増員した
  新政府軍   700人
  列藩同盟軍 2000~2500人
・閏 4月29日
 新政府軍、白河口に本陣を置く
・ 5月 1日
 新政府軍、兵力を3つに分ける

 中央隊>忍 藩(1小隊)、大垣藩(1中隊)、長州藩(1小隊)、砲兵団
     午前8時出発
 左翼隊>大垣藩(1中隊、砲1)、長州藩(1中隊、1小隊)、薩摩藩(五番隊、砲2)
     午前6時出発
 右翼隊>薩摩藩(携臼砲2、四番隊、二番隊)
     午前4時出発

 中央隊(本隊)は伊地知正治が率い、左翼右翼隊は野津と川村が率いた
 左右の迂回部隊がまず先発し後に中央隊が進軍、小丸山を占拠。なお本隊は大軍とみせかけ、列藩同盟軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現九番町西浦、稲荷公園)に砲撃し注意と兵力を引きつけた
 新政府軍別動の2部隊が手薄になった立石山と雷神山へ侵攻して占拠した。新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から砲撃を加え、さらに兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した
 列藩同盟軍は横山主税をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった

 ※ 写真、石垣崩落前の白河城
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列藩同盟軍の反撃
・ 5月16日、17日
 列藩同盟軍、小規模の攻撃
 ※ 仙台藩士細谷直英は、東北地方の侠客・博徒・農民などで「衝撃隊」を結成した。黒装束に身を包み長脇差で夜襲攻撃を繰り返した。衝撃隊は新政府軍から鴉組(細谷からす)と呼ばれて恐れられた
・ 5月26日
 列藩同盟軍、兵力の再集結を終え、約2000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけるが失敗
・ 5月27日、28日
 列藩同盟軍、連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退
・6月
 新政府軍、5月6日の今市の戦いや5月15日の上野戦争での勝利により関東から旧幕府勢力の掃討なって戦力に余力が生じ、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城へ増援される
 ※ 板垣退助(東山道先鋒総督府参謀)
・ 6月12日
 列藩同盟軍、白河城へ攻撃を仕掛けたが失敗
・ 6月16日
 平潟に新政府軍1500人が上陸。その後も上陸は続き7月中旬には3000の兵を擁するようになった
・ 6月24日
 平潟の上陸軍に呼応し白河から板垣退助率いる新政府軍が棚倉城攻略のため800の兵を率いて出発
 ※ 棚倉藩は白河と平潟の中間に位置し両新政府軍が提携するために確保する必要があった。新政府軍の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった
 棚倉城は落城して棚倉藩降伏
・ 6月25日
 列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗
・ 7月 1日
 列藩同盟軍、攻撃失敗
・ 7月 2日
 列藩同盟軍、西郷頼母が総督を罷免され後任として内藤介右衛門がその任に就いた
・ 7月 8日
 庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが奥羽越列藩同盟から離反したとの報が入り、派遣を取りやめ同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた
・ 7月13日
 平潟の上陸軍は平城を占領し、以後軍を再び2つに分け海岸沿い及び内陸へ進軍を開始し、三春にて板垣退助の白河軍と合流した
・ 7月14日( 8月31日)
 列藩同盟軍、白河城への攻撃は最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、白河より北の中通り・浜通りが新政府軍の支配下となったため、列藩同盟軍は会津藩領を経由し白河周辺から撤退

 白河口の戦い終結

--参考文献;Wikipedia「白河口の戦い」・パンフレット「戊辰白河口の戦い」--



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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by mo20933 | 2012-06-02 17:52 | 白河市 | Comments(0)