2017.11/16(THU)

トランヴェール 会津軍、奥会津で奮闘す!




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表紙;JR只見線・第四只見川橋梁
トランヴェール 2017.November
特集
会津軍、奥会津で奮闘す!
  6.特集
   会津軍、奥会津で奮闘す!
   知られざる戊辰戦争への旅
  8.会津藩の生命線となった峠道
   頼みの長岡陥落
   会津只見に残る悲劇
 16.下野街道に会津軍奮闘の跡を追う
 22.伊南川にて西軍を討つ
   山河を揺るがす会津軍の反撃
   ・・・
--引用;トランヴェール 2017 November--
※ 記事内容の紹介は省略
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大 内 六、大内戦争(2014.12/01)
    戦死二十四人墓(2012.08/30)
    笹沼金吾墓(2017.07/07)
田 島 官軍/戦死十九人墓(2014.03/28)
    田島陣屋跡(2012.09/02)
昭和村 野村新平の墓(2013.06/09)
    會津藩戦死二人之墓(2013.06/11)
    官軍戦死九人之墓(2015.08/06)
只見町 河井継之助墓(2014.08/06)
    只見における河井継之助1(2014.08/08)
    只見における河井継之助2(2014.08/09)



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2017.11/02(THU)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 維新の巻(第一巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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維新の巻(第一巻)
幕末の薩長土肥 2
【コマ 64】
西郷も蹶起するなるべしと、その到るを待ち迎ふる様の如し。
 然るに薩摩藩にも穏和、激論の二大潮流あり。久光は前者の首領にして、堀次郎、中山忠左衛門、大久保市蔵の輩これに随従し。其激論黨には、二才衆と云へる一団、西郷を首領と為して、之が中抽たり。今回の上京は名こそ薩藩の上洛なるも、内部は両黨混入互に隙を狙つて、今にも爆発せむとするにあり。かくて是等の一行も、大阪までは極めて無事平穏なりしも、やがて京都伏見に到れば、待ち兼ねたる激論黨は、早くも群がる天下浪人志士と呼応して、いよ/\幕府反対の旗幟を立てゝ、関白九條常忠公及び所司代酒井忠義を斬殺し、京都の大勢を決定して、而して島津久光の態度を動かさんとの謀議は、伏見の旅館寺田屋に於て、暗々裏に決定せられたり。思ひも依らぬ寺田屋の謀議、是を聞きて穏和黨の狼狽一方ならず、主謀の者を探れば、又もや西郷隆盛、今や此爆発の黒幕となりて、危険云ふ可らず、依て西郷を捕へ、帰国せしめて流罪に処し、徒黨斬滅を令するに至りて、浪人の腹案こそは、実に意外の凶変に遭遇したるものと云ふべし。島津侯の探索急なり、巨魁平野等は捕へられ、浅川等江戸へ遁れ、激論黨の密計も水泡に帰着す。是所謂寺田屋事件にして、薩州島津は、佐幕本領を遺憾なく発揮したる訳なるを以て、不平満々として、長藩より遁れて、折角薩藩に投じたる浪士、寺田屋事件を望み見ては、失望落胆たゝ憤々大息あり。されば形勢の非なるもの、みな不平を鳴らして四方に散逸し、又もや長州へと接近するに至る。何と厄介至極の浪人ぞや。
 薩長の形勢に次ぎて、方今に於ける土佐の内情を見るに、土佐藩主山内容堂侯は、徳川家に系縁あるのみならず、穏和黨の有力者なり。然ればこれに補佐役たる、参政吉田元吉、同後藤象次郎等は、能く佐幕の政策を維持し、藩論を統一するに努めし所ありけるも、時勢は又激論黨の侵す所とはなりて、志士は京師の間に往行するあり。武市半平太、その巨魁となる。
 武市は、早く其藩を脱して、身は土佐の浪人を自負し、竊かに京師に潜みて、同志の間に気脈を通じ居りしもの。常々京師と土佐を往行して、時勢を説きて藩土を煽動せしかば、志士風に臨むで同するもの、坂本龍馬中岡慎之
【コマ 65】
助を始め、脱藩浪士は次第に蔓延して、皆激論思想に熱狂するに至れり。されば浪士の十八番として、論難囂々勢の激する所風を起し、遂に参政吉田元吉をば暗殺するに至りて、土佐の形勢は愈々不穏の兆を来したり。茲に於て、吉田参政の死後は、後藤象次郎、是に代つて土佐藩に要路の職たり。依て藩内過激の妄論を望み見て、其藩政改革に着手すべく、激徒鎮圧の策を講ずるに頗る是が憂慮する所にてありき。
 夫れ薩長土肥は、幕末の有力なる四藩にして、長州は極端なる倒幕激論黨なり。薩州は倒幕佐幕両立にして、寧ろ佐幕黨優勢にあり。其土州は大勢佐幕と、まづ旗幟鮮明たるに反して、其肥前藩に於けるや、両黨全く傍観の態度にあり。蓋し藩主齊正侯が、両黨の接遇に付きては、所謂不得要領主義を以てする藩政の致す所ならん。然れどもその閉窓せる態度は、却つて両黨より不快を以て迎へらるゝものゝ如し。
 然れども、肥前藩は、時勢に慮して、徒に藩論の発表を避けつゝ、隠秘の裡に学問技芸を励まし、他日飛躍の時期に至りて、暗中総挙の企てに備へんとはなしたるものゝ如し、然れば之を知る者は、深く肥前を刮目監視したりと云ふ。されど藩内鳴りを殺すの態度は、全く外見のみにして、其内部たる既に激論分子の排出あり。即ち副島種臣、江藤新平、大隈重信の如きは、頗著なる過激家として数ふべき也。彼等諸国浪人の妄言を耳にしては、如何にしても腰を落付け置く能はず、過激の思想に、血湧き、肉踊りて、竊に藩を脱し、肥前の浪人を気取つて、京師浪人の巣窟に出没せむとしたる事一再ならず。加之。今は激徒煽動の危険人物として、環視せらるゝに至りしと云ふ。江藤新平の乱や、大隈重信の気焔を以て見るも、確かに尋常一様には非ざりしなるべし。然り、彼等浪人たらむとして、熱を吐いて、抜け殻と為りしこと幾度、然れども脱走の都度追手に捕へられて、帰国と共に学堂に詰め込まるゝが常、敢て暴挙の機会なかりしは、大幸の至りと云ふべし。
[附記] 肥前藩過敏家江藤が、其同志を煽動するに奔走せし當時の書翰は頗る天下の消息を知る便あり。左に摘抄すべし。(江藤新平が国元に送りしものゝ由)
一、 今日の問題は公武合体、尊王攘夷にして両黨の争奪、衝突は遠からず実現すべく、奸雄私曲を謀する好機会を与ふると共に、夷狄の窺ひ乗ずる機運に瀕す
【コマ 66】
るに至るべし。
一、 近世幕府は政略を以て国政に起ち、其残骸を保たんとするものゝ如し。元来幕府は武力を以て起ちしものにして、実力なくば既に其存在の必要を認めず。然るに政略を以て之を持続せんとするは、根拠なき空位なるべく亡滅必至遠きに非ず。時運は倒幕以て天皇親政を要望す。
一、 幕府有司久世及び長州藩永井の妥協は長州藩の不平□、勝を制して、妥協水泡となり俗説紛紜(ふんうん)たり。
一、 薩は長に依りて議を変じ、長は薩に依りて論を変じ、薩長両藩は道を二つに求めて相反目し、両藩亦内部に議論四分五裂、其の帰着するを知らず。
一、 国政多事之を双肩に荷負ふ敏腕家、天下幾人ありや。水戸烈公薩州斉彬公及び吾が藩公より外なし。然るに前二公既に死去す、之れ吾が公の一奮発すべき機会にして、天下亦此に嘱望する事厚し。
    *
當時の浪人が天下国家を論じて、東奔西走の運動費は、主として激論黨の巨魁より貢がれしと雖も、尚不足するは勿論なり。茲に於て浪士等は、一人一日一百文の貯金を為せしといふ。當時の一百文、現代の一銭也。若し其力なき者は、書籍を筆写し、是を書店に売却して、筆耕料を得るなりと。
end
( 1へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

江藤新平
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小笠原唯八墓、小笠原謙吉墓(西軍墓地)(2015.05/06)



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2017.10/28(SAT)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 維新の巻(第一巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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維新の巻(第一巻)
【コマ 60】
幕末の薩長土肥 1
 夫れ国学は泰平の安きに人心を啓発し其結果は尊王賊覇論(治国は王道に俟つべく武門の是に當るは変則的政治なり)復古説(歴史的観念に従ひ、往時に於ける吾皇権隆盛時代を回想し武家政治を打破して皇権政治とす)天皇中心論(天皇を政務の中枢に、諸多公卿及び武家は随従的に参政すべし)等を産むに至りて、吾が建国の歴史は治国の大権皇室に属し、名分愈確認せらるるにつれ、その幕府なる武家政治が、果して吾が国體に相容るゝべき哉、否や。世上漸く是を疑ふに至りしのみならず、今は却変則異例なるに、学者政客の等しく公認する所とは為りたり。さらば幕末に於ける政権論、是等幾多変遷跡を辿りて、遂には幕政に対立するの風潮と化し、同志相需めて派
【コマ 61】
を為し、党を結びて、勢の激する所幕府破壊を論じ、政体改革を絶叫して、尊王の大義を説くに至る。かくて時勢の推移は復古の萌芽をして、武門の権に超脱せしめて、国論いよ/\鼎立と為りし折柄、敵々米国水師総督ヘルリは、当時日本に比類なき四隻の大艦を率ゐて、相州浦賀港入津事件の惹起するあり。世上所謂毛唐人なるものを嫌悪する当時の趨向は、国内尊王論と相俟つて、一種の反幕思潮は志士の口吻を介して、愈天下の耳目に喧しきを告ぐ。頃しも万延元年秋水戸烈公の歿するや、有繋は尊王思潮の本源地たる名に背かず、水戸は忽ち藩政弛みて、俄然君臣相殺す天狗の輩出と為り、筑波山、大平山は志士浪士の出没地と化して、骨肉相喰む黨争(尊王黨/幕府黨)に日も是れ足らざるが如く、やがては尊王の論客勢ひの非なるに及びて、郷を脱し家を捨て、次第に西漸して、江戸に侵入するあり。横浜に焼討を企つるあり。遠きは木曽路を辿りて京都に上るあり。何れも勤皇家を標榜して、天下人心を収撹するに西奔東走の多事にあり。
 此時に當りて、江戸幕府の消息を窺ふに、大老井伊直弼の安政の大獄以来は、奥州平藩主安藤信正、井伊の跡始末を継受して外交の衝にあり。而かも安藤の外交政策たる、即ち舊套襲蹈主義にして、開港及び公武一和の確立に全力を注ぐ所たり。然れば浪士は桜田門の変を以て、開港論の本源を絶ちて漸く安堵の昨今、安藤また前例に懲りずして、その抱持する政策を実行するに於ては、御機嫌斜ならざるは勿論にてありけるが、端なくも和宮(カズノミヤ)の御降嫁と為り、愈御東下の慶事を見るに至れり。それ和宮は既に有栖川宮家に御婚約にありしかど、這去井伊直弼存世に於て、即ち大老たる権威を揮つて、乱暴にも御婚約を破り、而かも無理まで通して、十四代将軍家茂の許に、御降嫁を強請したる内情のことゝて、其処置既に万人の咎むる程に、愈是が実現となりては、激論家が不倶戴天の仇の如くに看做せる公武一和策、再び其強固を見るに至りては、浪士たるもの憤慨せざるを得ず。茲に於て、私憤公憤今や絶頂に達し、人心熱狂して明日の変を知る可らす。幕府と浪士の間は愈険悪となる也。然れども幕府は皇妹の御降嫁に依りて、公武一和策だけは、兎に角安全の途も得たりと雖も、尚幕府有司に対しては、差し迫れる頭痛の
【コマ 62】
種あるなり。即ちそは外交問題にして、時の大老井伊直弼の在世に於ける、彼の安政の假り條約に汲みて、開国政策を以て、外国よりの圧迫を和らげ得たりと雖も、是とて永久無限の程にも非ずして、悲しきかな、條約充許の期間は、當分の内なる條約付勅命なるを以て、遠からず、鎖国閉洋の攘夷策に復帰すべき筈にあり。然れば幕府有司當路者たるものは、何時までも安閑たるを得ざるは勿論にして、早晩対外政策を確定するの必要に迫り居るもの。さればこの難題につき、幕府當局者の所論を見るに安藤正信は、當時に無類の開国眼を以て、内治外交共に欧洲主義に則り、其結果は宮中方の攘夷論者に対し、まづ宇内の大勢を説き付けて、既に開国の餘義なきを含ましめ置き、以て開国策を取りて、これを国是となさゞるべからずと、提唱するもの。然るに同僚久世大和守廣周(関宿城主)は、必ずしも安藤の主義には反対するに非ずと雖も、突飛に開国策を持出して、京師に上るは、或は宮中違勅の責任を畏れ、さらばこの大問題を提けるに付けても、その下準備として、まづ京都の公卿と幕府の折合をして、円満ならしめ置く必要上、予めその内運動を急務と論ずるに至る。此時に當りて、幕閣硬軟の議論は、端なくも長州藩参政永井雅楽の耳に入る。依て永井は好事逸すべからずと、輙ち久世に公武周旋をば建言したりけり。されば軟派の久世廣周は、竊かに永井の言に賛して、今回の京都周旋を委嘱せんとしけるが。安藤、頑として聞かず。蓋し事もあるべきに、外様大名殊に徳川創業に於ける、関ヶ原の張本人たる長州藩の周旋に委するは、徳川幕府の威厳を損ふを以て、須く幕府直参に如かじと云ふあり。茲に於て、幕府の内部には議論二派に分れて、互に仇敵視し、これに攘夷論者が雷同して、いよ/\安藤は孤立憎悪の人と為り、威望は地に落ちてその暗殺計画は、坂下門の要撃(文久二年正月とす)に変じたり。事茲に至りて、安藤も兜をぬがざるを得ず。依て安藤は遂に退隠するに至りて、即ち久世の独占舞台は来りぬ。されば京都周旋に関する長藩永井との妥協案は、いよ/\久世の持説の通りに、京都に実行を見んとす。
 元来永井なる者は、周布政之助と共に、當時長州藩要路の人なり。其の性格を釋ぬれば、甘言玉を解かすの類にして、即ち口の人なり。されば斯る素
【コマ 63】
性の人なる故、藩主を手玉に取りて、毛利侯の信任殊の外厚きは勿論なれども、斯る性格の人に限りて、下僚の信用薄きは、古今変らぬ通理、果たして長藩士その多くは、至つて周布に随従するものゝ如し。何となれば、長藩の大勢は、攘夷論に傾きつゝある折柄、吉田松陰の門下生は四方に潜伏し、次第に頭角を現はして萩に割拠し、先師が遺志を貫かんと、互に呼応して一物を畫するに、東西に熱中するにあり。長州の本国既に右の如くなるに至りて、その江戸詰重役桂小五郎(木戸孝允)等、水戸浪士に結託するありて、幕府と長州の持論は、両々千里の差を産みて氷炭相容れざる訳と為るなり。依て長藩とて、その大勢に見て、幕の久世と長の永井が妥協案には、悉く反対せざるを得ず。されば長藩士は、京都周旋を耳にしては、心竊かに永井の不心得を憤りて、何事をか起さんと敦圍くものとす。
 時に毛利侯には、永井を随へて上京の事あり。永井の所業を憤りし攘夷論者は、早馬を駆つて使を京に送り、而して公卿を巻き込めて、幕府の妥協案を受附ざらしめ置き、更に藩主上京を尾行して、永井を道中に於て暗殺の密計を立てたりと云ふの凶報来つて、御本尊の耳を驚かし、その成る可らざるを見て、永井は風を喰つて走る。されば切角の公武周旋は、暗殺の裏書に依て、見事失敗に帰着したるなり。然れどもこれ専ら長州藩内部の出来事、その外圍に群集せる浪人志士は、方今の形勢に見て、永井の作業を以て、長州と即断し、最早長藩の頼むに足らざるを嘆じて、次第に薩摩に帰順せり。
 長藩の永井が、公武周旋を約する事に於て、天下浪人の嘱望は、忽ち薩州に注ぐに至りし所以のものは、蓋し薩藩西郷吉之助(隆盛)等の一組が、先代、幕府大老井伊の奸謀を挫かんとして、僧月照等と共に、義兵の挙ありしを以てなり。
 文久二年四月に至れば、薩州藩島津和泉守久光、参覲(さんきん)の報あり。浪人志士之を目して西郷及月照等が、義兵を実現する第二の関ヶ原と夢想し、筑前平野次郎、出羽清川八郎の如き神経過敏家は、久光の上京に対して、一種の深き意味を含ましめ、浪人の糾合に大奔走を開始し、而して久光の上京と共に
【コマ 64】
( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2017.10/23(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/五稜郭の包囲総攻撃
国立国会図書館デジタルコレクション




【コマ 36】
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蝦夷の巻(第三巻)/五稜郭の包囲総攻撃
【コマ 473】
(一)蝦夷籠軍の苦境
 屍山血河の函館の大戦、海陸合同四方三里の混戦に、蝦夷軍の防備は皆敗れて、陸軍奉行土方歳三は討死し。蝦夷艦隊は全滅し。函館は遂に陥落したり。思ひ見よ。孤軍奮闘よく天下の大軍に抗し、頑強勇邁函館の一郭を保ちて、接戦相譲らざりし蝦夷軍こそ、如何に約盟の義を重じたりしぞ。然れども七重浜の敗陣以来、続いて函館の一敗に旗幟振はず。海陸合同の圧迫は急転直下となりて、城外今や防備を施すの策なく、孤軍咽嗚漸く軍紀を支へて北と南の残塁に立て籠るも悲惨なれ。
 孤城落日。兵気は沈々として消ゆるのみ。更に西軍艦隊は、甲鉄艦を主脳と為し、三十町の距離を保ちて、七十斤の巨弾を込め、而して五稜郭を砲撃する連りなり。砲弾連続郭塁を震裂し、隊士の死傷は山と積みたり。
 籠軍、最早通路絶たれて、命脉は秋風落莫唯死地に向ふのみ。星忠狂、憤激禁ずる能はず、即ち守護、見国の諸隊を率ゐて、大森浜手を攻めけるが、激戦一敗地に塗れて引き退く。然れども、星.未だ倔する能はず、十四日再び千代ヶ岡を発し、大に一本木関門を襲ひとも、力戦尚頽勢今や非なり。か
【コマ 474】
くて夜に至れば、郭内動揺の雲は俄かに起り、忽にして本郭裏門の警備は空虚とはなりぬ。陸軍添役澁澤誠一郎、早くも麾下小彰義隊を率ゐて、脱して西軍の陣門に降る。続いて裁判奉行兼陸軍添役たりし津田眞一郎、裁判役及び諸隊の重たちたる嚮導役を率ゐて、又降る。惟ふに、澁澤及び津田は、陣中に在りては、薩長攻撃の論客にてありけるが、窮乏を望み見ては、激論何時しか消えて、早くも脱走を始む。十五日となりて愈四面楚歌の声あり。衝鉾隊杜陸隊、見國隊の隊士は、彰義隊長池田大隅守と共に、夜半に脱走して、湯川に走り、而してまた降る。更に會津遊撃隊長楯崎才一は、千代ヶ岡の守りを捨てゝ、而して去る。かくて脱走の声々は郭内に満ち/\て、籠城の頽勢愈険悪となりたり。蝦夷軍、元来は浪人の集れるもの、然らば脱走に始まりて脱走に終る、是れ敢て怪むに足らずと雖も、その巨魁たる榎本に取りては、事苟も浪人生存の目的に各義約を為し、事茲に至りし以上は、大に決心する所ありしなり。依て諸将を会し令して曰く、『味方同盟を破りて脱走する者日々に多し、兵力及ばざる時は、我身を捨て、士卒を援くる、これ主将たるものゝ常なり。今や僅かの脱兵も纏め兼ね、一軍瓦解に及ぶは、我輩の耻辱また末代に解けず、諸士、味方の運命禍危愈切迫して、當底瓦解を免れざるに至れば、不肖鎌次郎、身を以て諸君の健在を祈らむ。然らばそれ迄は義約を重んじ、決して後世に物笑を残す勿れ(』)と。即ち榎本は己れ脱軍の総督として既に死を決し居るもの。あはれ天下の浪人たる、維新の逆境児をして、その非嘆に替えしむべく、向来の恙なき生存を計るが為め、浪人國を興さむとして、遥々北國に乗り越せし身や。願望遂に叛逆と為り、今や天下の大軍に囲まれて、事遂に破れ、後事を計る即ち浪人の余命を救ふに、巳れ一命を、この残塁に捨てむとす。
 蝦夷本営の郭内や、脱人続出に続えて、外囲の砲撃は峻烈なり。今や抗争たゞ籠城して、上下一統頑守するのみとはなりて、郭内の四面は屍山血河鮮血淋漓たり。傷痩を療養するの場所すら、果たして那邊に存ずべきぞ。血涙相汲む籠城の隊士、今やその運命は、榎本を始め一身を捧げて、義約の本髄を貫徹せむとする風情も憐れなり。茲に於て、死傷を悉く湯川に移し、精兵
【コマ 475】
を以て城郭を守り、殊守決戦頑強なる抵抗に、上下みな挙げて天運を待たむとするものとす。
 更にその弁天台場を見るに、総軍立て籠りしと雖も、兵粮は持久の途なく弾薬僅かに一万発、是を以て向後の籠城を保たざる可らず。然れば兵粮つきなば一統自殺すべく、其の前に當りて弾薬缺亡せば、是に処するに肉弾あるのみと、意気高し。思ひ見よ蝦夷軍の決心、孔軍奮闘人事の凡てを尽し、而して三河武士の最後を花と散らんとする其志気。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
榎本和泉守/徳川義臣伝(2014.11/25)



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2017.10/13(FRI)

雷神社と観音沼の紅葉 下郷町南倉沢?・観音沼




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雷神社と観音沼の紅葉
 雷神社は沼の縁小高いとこにある

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2017.10/12(THU)

奥州駒返坂 下郷町・野際宿先(会津中街道)




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奥州駒返坂について
 会津藩は元禄8年(1695)松川通り(会津中街道)を開削した。天和3年(1683)9月1日、日光大地震により五十里湖が出現し、南山通り(会津西街道)での参勤や廻米が困難になったためである
 その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石神・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家に至る31町52間の街道である
 旧道は現道よりも東側に位置している。野際宿からつづら折りの坂を登り切り、下る坂を「奥州駒返坂」と呼んでいた。ここには元禄8年銘「奥州駒返坂」の碑があり往時を偲ぶことができる
 険阻な大峠を越えるため、時の藩主松平正容公もこの場所で駒を返し徒歩で峠を越えたと伝えられる
--現地の案内板から--

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三斗小屋宿~野際宿の戦い
慶応 4年(1868)
・ 8月23日 
・西軍、三斗小屋宿に滞陣していた会津藩隊を襲撃
 那須岳越えの襲撃部隊は、更に北回り(大丸経由)と南回り(那須湯本経由)の二手に分れ進軍した。先に戦闘が始まったのは南回りの隊の方面で、会津藩隊を撃破した諸隊はこの日から三斗小屋に泊。ともに襲撃する事になっていた板室回りの部隊だが、進軍に手間取り三斗小屋手前の沼ケ原で夜を明かし、戦闘には間に合わず。翌24日に合流した
 青龍足軽四番隊、10名以上の戦死者を出す
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
 この日の戦闘で
 青龍足軽四番隊長の有賀左司馬(32才)
 同寄合二番隊長の原平太夫(44才)
等が戦死。残った隊士は野際を退き、田島方面の会津藩隊に合流した模様
・ 9月 1日
 三斗小屋に戻った館林&黒羽藩隊は会津へ向けて出発。途中、会津西街道を北上してきた西軍諸隊と合流して大内峠を越え、関山で凌霜隊など会幕軍と衝突しつつ若松へ向った
・ 9月 8日 明治と改元
     *
板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)



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2017.09/28(THU)

上ノ宮 那須町芦野(遊行柳のとこ)




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那須町指定天然記念物
上の宮の「いちょう」
 鏡山の麓にあり、約一キロメートル西方にある健武山湯泉神社に対して上の宮とよばれている。創立や由緒・沿革などについては不詳であるが、社頭には遊行柳の史跡があり、風光明媚な社域である。社域にあるこの「いちょう」は樹勢すこぶる盛んであり、当地域最大の巨樹である。なお、高さは三五メートルで目通りは六・一メートルを数える
  那須町教育委員会
--現地案内板から--
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遊行柳(2013.04/21)



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