2017.03/06(MON)

越ノ山風 山縣有朋公




山縣公は慎重のうえにも慎重な性格であったらしい。そんな公の著作による「越ノ山風」の一節を以下に引用してupする(5月19日、新政府軍は長岡城を落としたが追討する余裕は無かった。7月25日、一度落とした城を同盟軍に奪還されて、その時の心境等を書いたものである)

c0185705_94632.jpg

--------------------
引用(部分);国立国会図書館デジタルコレクション/陸軍省編修掛編(陸軍省編修掛、1930)
【コマ 108】
越ノ山風 自七月廿六日/至十月七日
【コマ 109】
長岡ヲ取リ返サレタルコトハ、大イニ諸藩ノ人心ニ影響ヲ及ボシ、中ニハ急使ヲ京師ニ出シテ、事変ヲ報告スベキ乎ナド、照會シ来ルモノモアリタリ、余ハ三日ノ中ニ必ス長岡ヲ恢復スヘキニツキ改メテ京師ニ報告スルノ必要ナキ旨ヲ以テ、之ヲ斥ケタレドモ、要スルニ是レ敗餘ノ人心ヲ鎮静シ、以テ神速ニ攻撃ノ画策ヲ立ツルノ決心ニ過キス、諸兵ヲ集注シ、総テノ準備ヲ為スニハ、多少ノ時日ヲ要スルコト勿論ニシテ、長岡恢復ノ困難ナルコトハ、其実余ノ頭脳ヲ苦シメツヽアリシナリ
--------------------
山縣有朋記念館(2012.11/20)
長岡城落城(2015.01/24)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.03/02(THU)

川路大警視 中村徳五郎[著]/マツノ書店復刻版




--------------------
c0185705_20563679.jpg

川路大警視 /中村徳五郎[著]
付・大警視川路利良君伝/鈴木蘆堂[著]
維新史料出版・古書売買の「マツノ書店」さんから、予約限定復刻の案内が届いた。よく/\検討したうえで「川路大警視」のみの予約申込みをした
     *
「西南戦争」で陸軍少将を兼任。日本警察の父・川路利良を描いた稀書二点を合本復刻
--リーフレットから--
--------------------
幕末期の戦功
元治元年(1864)、禁門の変で長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価された。慶応3年(1867)、藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学んだ
慶応4年(1868)、戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに薩摩官軍大隊長として出征し、上野戦争では彰義隊潰走の糸口をつくる。東北に転戦し、磐城浅川の戦いで敵弾により負傷したが、傷が癒えると会津戦争に参加。戦功により明治2年(1869)、藩の兵器奉行に昇進した
--引用・要約;「川路利良」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.02/21(火)23;50--



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.02/22(WED)

二本松少年隊顕彰碑 二本松城跡




--------------------
c0185705_13474654.jpg

写真;2013.08/27

二本松少年隊顕彰碑
 この一帯の平坦地は「少年隊の丘」と呼ばれ、戊辰戦争直前まで砲術道場で学ぶ少年達が稽古を行った場所といわれています
 当碑は、昭和十五年(一九四〇)の紀元二千六百年記念事業にあたり、戊辰戦争に出陣した少年隊士の顕彰を目的に、町一丸となってこのゆかりの地に建立したものです
 碑表面は、旧二本松藩主丹羽家十六代当主・丹羽長徳の揮毫、碑裏面には隊長・木村銃太郎、副隊長・二階堂衛守をはじめ、出陣した少年隊士六十二名の氏名が刻まれています
     二本松市
--現地の案内板から--
--------------------
二本松少年隊の奮戦(2013.09/07)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.02/20(MON)

奥州街道越堀宿 那須塩原市越堀




--------------------
c0185705_19252077.jpg

奥州街道越堀宿
 慶長八年(一六〇三年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、翌九年、奥州街道が整備された。以後、幕府のご機嫌伺いのため、大名の出府が広く行われた
 伊達公出府の折、那珂川洪水で渡河出来ず、急遽、那珂川岸に仮屋を建て、減水を待って江戸に向った。このとき仮屋を建てるのに協力したのが沼野井の藤田和泉重統である。宿場の形勢は、彼がその仮屋を払い請け、旅篭を建て替えた事に始まる
 越堀の地名は、彼が郷川という堀を越えてきた事に由来するとも言われている。参勤交代の制度確立と共に、大名行列・廻米その他物資の輸送、商人・旅人の往来等で賑わい、近郷や他国から移り住む人が増えて宿場として栄えるようになった
  平成二十六年三月
  鍋掛地域車座談議運営委員会
--現地の案内板から--
--------------------
「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.02/19(SUN)

地蔵堂? 檜枝岐村




--------------------
地蔵堂?
 たしか、六地蔵の奥にあったような記憶が...

c0185705_11074658.jpg

六地蔵(2014.05/18)
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.02/17(FRI)

日高見稲荷神社 福島県須賀川市長沼字日高見山(長沼城祉)




--------------------
c0185705_12463253.jpg

写真;2013.04/16

日高見稲荷神社
--------------------
長沼城祉(2013.04/18)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.02/11(SAT)

棚倉城隅櫓跡(二重) 棚倉町




--------------------
棚倉城隅櫓跡(二重)
c0185705_11000831.jpg

写真;2012.11/04
--------------------
棚倉城(2012.11/04)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.02/08(WED)

三斗小屋温泉と三斗小屋宿 那須塩原市三斗小屋
会津中街道




--------------------
三斗小屋温泉
峰の茶屋(2014.02/18)
 三斗小屋温泉(さんどごやおんせん)は、栃木県那須塩原市(旧国下野国)旧会津中街道の三斗小屋宿近くにある板室温泉郷エリアの温泉。江戸時代には『那須七湯』を構成する温泉に数えられ、現在でも那須温泉郷を構成する温泉として数えられる。アクセスは徒歩のみ、トレッキング程度以上の装備が良い
--引用・要約;「三斗小屋温泉」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.08/23(火)19;22--

c0185705_10302824.jpg

写真;三斗小屋温泉(煙草屋と大黒屋の旅館二軒がある)・2012.09/03

c0185705_1945497.jpg


三斗小屋宿
三斗小屋宿(2012.09/05)

c0185705_10313302.jpg

写真;昭和三十二年(1957)以降、無人の地となった三斗小屋宿跡・2012.09/03
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.02/06(MON)

諭農の碑 那須町芦野




--------------------
ゆのうのひ
諭農の碑
 板屋の坂を芦野側から登ると中建立途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に諭す言句が彫ってある
 べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から餓饉のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としても貴重なものである
     那須町教育委員会
--現地の案内板から--

c0185705_15241709.jpg

写真;諭農の碑(加工/2014年)
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.02/05(SUN)

そば喰稲荷(沢蔵司稲荷神社) 日光市今市、浄泉寺内




--------------------
c0185705_11360547.jpg


そば喰稲荷
--澤蔵司稲荷神社--
 この神社は、信仰に篤い二宮尊徳の子弥太郎が文久2年に寄進したが、戦乱にあい消滅した。その後、弥太郎の子金之丞・延之輔等によって復興した。伝えによると--金之丞の妹に夜泣きする人がいて、そばを献上し、祈願したら直ちに治ったという--以来「そば喰稲荷」と云われるようになった
 今市は、そばのまちとして全国的にその名を聞くところとなったが、そのルーツはここにある。そばが約150年以前から、この地に存在し神に奉げるものとして尊ばれ、現在まで永い伝統に培われ、守り、愛されて、引継がれている
--現地の案内板から--
--------------------
沢蔵司稲荷仕法の跡(2014.01/04)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]